2010年12月29日水曜日

ホームページへの移行

皆様へ、

今年6月に二つのブログ
(1) グッジーの青春放浪記(小生の米、仏、独への遊学時代の記)
(2) 女アルピニストを娶った山嫌い男の百名山奮闘記
を立ち上げてから多くの方々にお読みいただき感謝しております。
この度ブログより読み易いホームページ(目次がついて第一話から並んでいるのでスクロールの手間が少なくなる)に移行いたしました。是非ホームページの方を試してください。ホームページで見るには先ず小生のホームページ(http:www.bonadult.com)
をクリックしトップページ画面で<随筆集>をクリックしますと上記二つのタイトルが現れますので読みたいほうをクリックしていただけば読み易い画面が現れます。

下山成人

2010年12月22日水曜日

79.アメリカを後にしてフランスへ

大学院での理論物理専攻の夢が断たれた後も暫くはワシントン大学の大学院で数値解析(numerical analysis)を勉強していたのですが、ある日突然ワシントン大学でMBAを取った女性に「日本に帰って就職するなら数学で修士号をとっても意味無いわよ」と言われたことを思い出しました。理論物理を専攻出来ないのなら自分は今何のために数学を勉強しているのか? そう考えると馬鹿らしくなってきました。こうなったら好きな語学を学びに早いことヨーロッパに行った方がいいと気が付いたのです。

後三ヶ月で数学の修士号が取れるところまで来ていましたが未練はありません。直ちにフランスに向かう準備を始めました。シアトルの旅行会社でニューヨークからフランスのル・アーブルまでの船旅を予約しました。船は当時世界一の豪華船と言われていたフランス号です。以前はクイーン・エリザベス号が世界一といわれていましたがそれに勝るとも劣らぬ豪華船と聞いていたので是非乗ってみたかったのです。因みに私は飛行機が大嫌いで空旅はどうしても避けたかったのです。

9月10日スーと大勢の友達に見送られて3年前にシアトルに着いたのと同じ場所であるダウンタウンのグレイハウンド・バスターミナルからニューヨーク行きのバスに乗り込みました。3年間のさまざまな思い出を胸に見送りの人たちに手を振りました。

3日間バスに揺られニューヨークに付いた時には流石に臀部がはれぼったくなっていました。出航まで未だ3日間あったのでメジャーリーグの野球観戦に行ったり友人宅にお邪魔したり、映画を見たり、床屋で散髪したりしました。ニューヨークの物価の安さに驚きました。

タイムズスクエアー近くで別々のホテルに3泊したのですが最初のホテルが3ドル、二日目は4ドル、三日目は奮発して6ドルのホテルに泊まりました。みな安宿には違いありませんでしたがフロントもあり、ベッドのシーツも清潔で浴室も配管等がさびで汚れてはいましたがお湯がちゃんと出たので不自由はありませんでした。貧乏学生のアメリカ最後の宿には相応しいものでした。 

最後の夜、当時は珍しかった日本の寿司屋を見つけたので、ですしを握ってもらい日本のビールを注文して一人で盛り上がりました。続きのお話しは「グッジーの青春放浪記フランス編」で。

78.アインシュタインは例外だ!(夢半ばの挫折)

3回目の春学期で物理学部卒業に必要な最期の科目を無事履修し終わった私は直ちに大学院理論物理科の主任教授のもとを尋ねました。主任教授は一寸細身なところを除けばアインシュタインそっくりでした。私の大学院で理論物理を専攻したいという希望を聞いた教授は私の学部(Undergraduate)の成績を見るなり「大学院で理論物理を専攻するのはアンダーグラジュエイトでの成績がほとんど“A”の学生なんだよ」と言い出しました。ここで引き下がるわけにはいきません。「かのアインシュタインはそんなに良い成績ではなかったように聞いていますが」と言うと「アインシュタインは例外だ。」とのたまいます。

あれこれやり取りが続いた後、教授が「ではマックスウェルの電磁気学について述べてみなさい」と言い出しました。勿論古典物理学の重要理論であるマックスウェルの電磁気学は知らないわけは無いのですが突然の口頭試問は予想していませんでした。知っている限りの知識を絞って説明を始めると何とか諦めさせようという意図があったのか鋭い質問を次々と浴びせてきたのです。教授は少し訛りがあった上早口でしたので質問をすべて正確に理解できていた自信はありません。時間がとても長く感じられましたが最期まで大学院での理論物理専攻の許可はもらえませんでした。 私の計画が挫折したのでした。

当時ワシントン大学の大学院数学科で私に[Measure Theory]の個人指導をしてくれていたスウエーデンから来ていた若い客員助教授にこの話しをすると「若者が勉強したいというのを許可しないのは間違っている」と言ってひどく憤慨してくれましたが大学の結論を覆すには至りませんでした。

77.Jさん、Tさんの結婚と私とスーの婚約

いよいよJさんとTさんの結婚式の日が来ました。アメリカの結婚式には花婿付添い人(groomsmen)と花嫁付添い人(bridesmaid)が欠かせないのですがそのうち日本でいう仲人の男性の役割を担うのがベストマン(best man)であり、仲人の女性の役割を担うのがメイド・オブ・オナー(maid of honor)です。

花婿付添い人には私の他に沖縄から来ていた日本人留学生のN氏とワシントン大学で私の日本語コースの生徒でひょんなことからJさんとも親しくなっていたアメリカ人のジョージが選ばれました。そうして私がベストマンを任されたのです。花嫁付添い人の方はRさんが親しい方々に頼んだのですがスーは仕事の関係で丁度シアトルを離れていましたので結婚式にも参加できませんでした。私は結婚式の仲人役など後にも先にもこの時だけですから非常に貴重な体験をさせてもらったことになります。

付添い人たちは皆正装です。男達はタキシードを着ます。通常は付添い人が自前で用意するのですが貧乏学生だった我々はタキシードのレンタル料をすべてTさんのお姉さんに用立てしていただいたのでした。式は順調に進み披露宴に入りました。式に駆けつけたJさんの叔母さんなる方によるフラダンスなどが披露され宴も酣となってきました。私も二人に何かいい贈り物が出来ないか考えた末、私が日本から持参してきていたポータブルテープレコーダーで披露宴参加者のインタビューを録音することを考え付きました。披露宴参加者にインタビューしまくった録音を編集してお二人に送ったのが貧乏学生だった私が出来た唯一の贈り物だったのです。

二人の結婚式から数ヵ月後、私とスーは婚約を決意しM先輩の下へ報告に行きました。すると気が変わらない内に皆に発表した方がいいと言って婚約式の段取りをしてくれたのでした。婚約式当日、私達はMt.Rainierの近くにある岩山、Mt.サイに登りました。岩山の頂上から見た絶景は素晴らしいものでした。又、下山後、麓の渓流に飛び込んで身体を清めた気分は最高でした。その晩の婚約パーティーには沢山の友人、知人達が集まって祝福してくれたのです。

76.シアトル在住日系移民の歴史を学ぶ

ハウスボーイを辞め大学近くの下宿生活に戻った頃、先輩のUさんはワシントン大学社会学科のシアトル日本人移民の歴史を編纂するプロジェクトで日系人家族を戸別訪問して調査するお手伝いをしてみえました。そのUさんからこのアルバイトを続けられなくなったので後を引き継いでもらえまいかと声をかけられました。興味ある内容でしたし時間的余裕も出来たことでしたのでお引き受けすることにいたしました。
プロジェクト担当の日系人教授から手渡された調査資料には一戸分の調査項目が数ページに亘ってぎっしりと詰まっていました。「イエス」か「ノー」かで簡単に答えられるものはあまり無く、一つ一つ丁寧に話を聞いて文章でまとめなくてはならない項目が多かったのです。アルバイト代は一戸当たりの定額謝礼金とガソリン代です。
このアルバイトが大変であることが分かったのは調査を始めてからです。まず訪れても留守で何度も出直さなければならないケースが非常に多かったことと、在宅していてもドアを半分開いて用件を聞いたとたんに「お断りします」と拒絶反応を示す家庭があったりして調査はなかなか捗らないのです。中には反対に「どうぞ、どうぞ」と言って私を家の中に招きいれ、調査に関係の無い昔話を長々とされるお年よりがいたりします。昔話が長引いて肝心の調査が一回の訪問ですまないケースも出てきました。
もらえる謝礼の割には時間のかかる割の合わないアルバイトです。10家族ほど調査を終えたところで我慢できなくなりやめることにしました。短い期間でしたが学んだことは多かったと思います。

75.日本人の海外移住の歴史

日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始まりました。始めは政府の許可や旅券を受けることなくハワイやグアムへ出稼ぎ労働者として日本を出国したのだそうです。その後、幾多の紆余曲折を経てラテンアメリカへの日本人渡航が盛んになり、そして20世紀初めには、北米へ多数の日本人学生が渡航しました。サンフランシスコ、シアトル、ポートランドなどで仕事をしながら英語を学び、学校へ通ったのです。私がしたのと同じように白人家庭に住み込み、食事代と部屋代を免除してもらい、小額の小遣いを受け取るかわりに、料理や掃除、洗濯など行い、昼間の空いた時間に通学したということです。
また一方で、農園などで働く出稼ぎ労働者も数多く合衆国やカナダ西部に渡り、やがて日本人人口の急激な増加が白人の人種的恐怖心を煽るようになり、1924年に合衆国は日本人移民入国を禁止するようになりました。1924年以来、日本人に門戸を閉ざしていた合衆国も、戦後、まず日本人「戦争花嫁」の入国を許可し、さらに1952年には少数の日本人の入国を認めるようになりました。そののち合衆国国内の公民権運動の高まりとともに、私の留学中の1965年には白人中心主義に基づいた移民政策を撤廃し、日本人移民への差別的入国制限がなくなりました。
このような歴史があって私が留学した時、シアトルには確りした日本人コミュニティが存在していました。銭湯も、碁会所も何軒かの日本式レストランもありました。夏には盆踊りも盛大に行われていたのです。
私はひょんなことから、このシアトル日本人移民の歴史を調査するお手伝いをすることになったのです。

74.3年目の生活

留学3年目ともなると日本人留学生の中でも古株となり日本人留学生会のプレジデントを任される羽目となりました。柄でもないので辞退したかったのですが先輩、後輩との繋がりがあるということで引き受けざるを得なくなったのです。ハウスボーイをしていたミセス・プライスの地下室で皆を集めてダンスパーティーを催したり、いろいろと日本人留学生たちの親睦を図るイベントを企画しました。

一方、学業の方は物理科の卒業に必要な必須科目を一つ残していただけですから比較的時間に余裕が出来ました。友人から紹介されたフランス人の家にフランス語の会話を習いに行ったのも時間が出来たからでした。又、交友関係も輪を広げ留学生だけでなく日本芸能文化交流のためワシントン大学に講師としてみえていたく方々やシアトルの英語学校に語学研修に来ていた方達とも親しくお付き合いをさせてもらいました。旅行をしたり、山にハイキングに行ったり、お宅にお邪魔して日本食をご馳走になったり、ゲームをしたり、正に青春を謳歌した時代でした。

3年目も半分を過ぎた頃ミセス・プライス邸のハウスボーイを辞め、再び下宿生活に入る事になりました。中国人の友人が安くていい下宿があるぞと教えてくれたのです。それは私がシアトルに着いて最初に入ったジェイコブスンおばあさんの下宿の直ぐ傍にあって地下室でしたがシャワー付きで明り取りの小窓も付いている小奇麗な部屋でした。驚いたことに家賃が月たったの15ドルです。ジェイコブスンの下宿が平均的な家賃月45ドルでしたからこれにはびっくりしました。流石に中国人仲間の情報網は凄いと思いました。即決でした。その下宿には沖縄から来ていたN氏も入っていて二人でよくひき肉を買ってきては特大のジューシーなハンバーグを作って食べたものです。