2010年12月9日木曜日

73. オナラスカのコプロライトとアゲイト・ビーチ

ミセス・プライス家のハウスボーイの仕事を譲ってくれた先輩Mさんは化石やらメノウ等の工芸品作成に適した鉱石を発掘するのが趣味でした。採取してきた珍しい石は小型タンブラー(石を入れてモーターで何時間もガラガラ回転させ、角を磨耗させる回転機)に入れ何日もかけて石の表面ををつるつるに磨きネックレスや、ブローチなどを作っていました。そんなM氏ご夫妻に誘われて化石堀やアゲイト(瑪瑙)採りに行きました。

シアトルから南へ車で1~2時間下ったところにオナラスカと言うところがあります。そこに行くと直径10~20cmもする丸太片がころころ転がっていました。それがすべて立派な木の化石(Petrified Wood)だったのです。 又、樹木の化石以外にもコプロライト(Coprolite)と呼ばれる恐竜の糞石が見つかります。このコプロライトは蛇がとぐろを巻いているような形をしていて今にも湯気が立ちそうな立派な糞の化石です。

このオナラスカにM先輩が我ら四人(Tさん、Jさん、Sさんと私)を連れて行ってくれました。樹木の化石とコプロライトをしこたま採取して来ましたが楽しい思い出です。 又、別の機会にはSさんと私はアゲイト・ビーチと呼ばれるコースにも連れて行ってもらいました。そこはアゲート(メノウ)が拾える海岸でした。M先輩はアゲートでもいろいろな装飾品を作るのを趣味とされていたのです。私はフランスに渡った後でMさんの奥さんに頼まれ、私が学生をしていたツールの町から遥々2日掛けてフランス北部の町ナンシーに住むフランス人女性のもとにMさん自作のブローチを届ることになるのでした。

72. 私のぼろ車1957年型フォード車の最期

私の愛すべきフォードの最後は壮絶でした。韓国から来ていた留学生の李さんが私の車でスポケーン(シアトルの東約500キロにあるワシントン州第二の町)迄一緒に行ってくれと言ってきました。付き合っていたアメリカ人の彼女が実家のあるスポケーンに帰ってしまったので迎えに行きたいと言うのです。李さんと彼女はかなり深い仲になっていたし私も彼女のシアトルのマンションに招待されご馳走にもなっていたのでOKすることにしました。しかしよく話を聞くと李さんが彼女に暴力を振い彼女が愛想をつかして実家に逃げ帰ったのです。「彼女も君の事は信頼しているから暴力を振うのは韓国の愛情の表現だと彼女に説明してくれ」と言うのです。そんな嘘はつきたくないと思いましたがOKした後でしたので李さんに同行してスポケーンに向けシアトルを後にしました。

当然日帰りは無理なので泊まりとなります。李さんはアルバイトでYellow Cab(taxi)の運転手もしていましたが運転が乱暴でよく事故を起こしていました。「俺が運転する」と言って我がぼろ車を彼が運転してスポケーンに向かったのでしたがその運転のすさまじいことといったらありません。スポケーンの町に大分近づいたころ国道横の傾斜のついた土手道を車が傾いた状態でびゅんびゅんと飛ばしだしたのです。恐怖で身体が硬直しました。きっと事故を起こして車が大破すると思ったのです。夕暮れ時で真っ赤な大きな太陽が車と一緒に追っかけて来るのが目に入りました。これがこの世で見る最後の光景だと思いました。

こんな思いをして到着したスポケーンでしたが彼女への電話説得は功を奏しませんでした。その日は静かな湖の近くのモテルに一泊したのですが翌日になって李さんが「俺は彼女を説得するためもう一泊する」と言い出したのです。私は考えました。説得に失敗したら気性の激しい李さんはますます無茶苦茶な運転をするに違いありません。もうこれ以上彼に付き合うのは身の危険を感じます。私は「どうしても今日シアトルに戻らねばならない用事がある」と言って一人先にバスで戻ることにしました。数日後李さんがシアトルに戻って来た時、もう我が愛車フォードは一緒ではありませんでした。帰路事故を起こし大破したのでジャンクヤードに18ドルで売ってきたと言って私に18ドル手渡しました。我が愛車を失くした悲しみより私は生きていられたことを神に感謝しました。

71. シボレーのコルベア

親しくしていた同期のN氏が一時帰国することになり彼の乗っていた車を預かることになりました。それはシボレーのコルベアでした。パワーステアリングでしかもマニュアル車ではなくAT車でした。当時学生達に人気があったのはコンパクトカーであり、フォードのファルコンとこのシボレーのコルベアでしたので急に裕福な留学生になったような気がしました。あまりにも軽快に動くコルベアに慣れると偶に自分のぼろ車を運転する時にハンドルが重くてカーブしきれないことがありました。

N氏の帰国期間が長引いた為に私はかなり長いことこのコルベアを私の愛車のように使うことが出来ました。使い出して間もない頃、日本から文化使節団の一員としてワシントン大学にみえていた若い女性から電話が掛かってきました。「素敵な車をお持ちのようですね、自動車の運転免許を取りたいので練習用に使わして貰えないかしら」というのです。借りているものを又貸しするわけにはいきません。ましてや未だ運転免許証を持っていない人に貸すなどはもってのほかです。「私のぼろ車ならお貸ししましょう」と答えるとあんなぼろ車ではいやだとおっしゃって私を困らせます。私も借りている車を貸すわけにはいきませんでしたので丁重にお断りし続けました。それ以後その彼女は私と出会うたびに私ことを「意地悪爺さん」と呼ぶようになりました。後に有名になられた方ですが良家に育てられた30才前後のお嬢さんでしたのでそんな態度をとられたのでしょう。

仲良しのJさんとTさんが婚約をした時にはこのコルベアで後に私の家内となったS子と四人でオレゴン州のボネヴィルと言う温泉地に一泊旅行に出かけました。軽快な車でのドライブは楽しいものでした。この車を借りていられる間は私本来のぼろ車に乗る気にはなれませんでした。

70. JさんとTさんの婚約

Tさんには日系二世の方と結婚してシアトルに住んでいたお姉さんがみえました。 Tさんはそのお姉さんの家から大学に通っていました。 Tさんと親しくなってからはJさんと良くそのお宅に遊びにお邪魔したものです。 時には大勢の日本人留学生達を招いてパーティーを開いて下さったこともあります。日本領事宅での家庭教師の仕事が終わった後、私にとってはTさんのお姉さん宅は美味しい日本食をいただける楽しい憩いの場所となっていました。当時お邪魔しては懐かしい日本のレコードを聞かせていただくのも楽しみでした。西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」や鶴田浩二の「好きだった」等々のレコードを繰り返し聴いては日本を思い出したものでした。

冬になるとTさんのお姉さんご夫妻とJさん、そしてS子を交えて一緒に良くスキーにも出かけました。こういったお付き合いが何ヶ月か続いた後JさんとTさんが婚約することになります。そしてお二人の出会いの時から知っていた私は結婚式でベストマンになってほしいと頼まれたのです。二つ返事で「喜んでお引き受けしましょう」と言ったもののベストマンなるものがどんなものか知りませんでした。

69. 新しい友との出会い

物理科の2年後輩に一人の日本人がいました。留学生仲間ではなかったので多分日系二世だったのでしょう。その彼が物理の階段教室に良く彼女を連れて来ていました。なかなか可愛らしい彼女です。名前も知りませんでしたが一寸気になる女性でした。彼女はアートを専攻していたのですがボーイフレンドに会いに物理科の教室に来ることがあったのです。一度だけ階段教室でその二人が私の横に座ったことがありました。その時彼女が手に持っていたバナナを一つ私に差し出して「これ食べる?」と言ったのです。そんな彼女が後に遊び仲間になるなどとは思ってもいませんでした。

話し変わって留学生活も2年目に入った頃あるアメリカ人の方が日本人留学生の憩いの場所として大学近くのかなり大きな邸宅の地下室を提供してくれることになりました。かなり広いスペースでしたが少々手入れをしなくてはなりませんでした。私もシアトル滞在2年近くなると日本人留学生の中でも何かしなければならない立場になってきていました。大工仕事が好きでしたので天井の隙間などを修理する手伝いをすることにしました。天井の一部に三角形の隙間がありました。私はその三角形にあわせてベニヤ板を切り、そこのパッチングを始めました。それを横でじっと眺めていた人物がいました。それが後に親友となったスキーの上手いJ氏との最初の出会いでした。後で聞くと三角形の穴を埋めるのには大きな板を被せれば済むのになんて細かいことに手間をかけているのだろうと思って見ていたのだそうです。良く考えれば至極ごもっともなことです。

その日本人留学生達の憩いの場所となった地下室の壁に男子学生達がピンアップ写真を貼りました。ピンアップ写真と言ってもビキニ姿の女性の写真であってヌード写真ではありません。ところがある日一人の女性が入ってきてこんなものはけしからんと言って我々の承諾の得ずにピンアップ写真を剥がして行ったのです。一年目の冬あのクリスマススキー合宿で出会ったスキーが好きなS子でした。

同期の学友達が去って行った後に上の三人と次第に仲良くなっていくことになりました。黒人街のダンスホールに一緒に行ったY女史が彼女の家で集まりを開いた時に私はJさんを誘いました。そこにはたまたま物理学階段教室で顔を知っていた例の彼女が参加していました。彼女がTさんというのを知ったのはこの時でした。それ以後大学で顔をあわせると言葉を交わすようになりました。Jさんの誘いでスキー好きのS子も誘って4人でスキーにも行くようになったのです。

68. 留学生の移り変わり

多くの留学生は1年から長くても3年もすると学業を終えて帰国します。そんな訳で親しくお付き合いをする仲間達も年々変化して行くのです。親しくお付き合いをしていた先輩や同期の友人が一人二人と去ってゆくのは寂しいものですが同時に新しい後輩達が入って来るので又新しい出会いが始まります。

日令丸で一緒にアメリカに渡ったR子さんがジョンホプキンズ病院での研修を終えて帰国することになったとの連絡を受けたのはこの頃でした。シアトル経由で帰国するので会いたいとのことでしたので早速ホストファミリーのアンに相談しました。家に泊まってもらえばよいと言ってくれたのです。飛行場に迎えに行くと彼女は明るい笑顔で降りてきました。何か垢抜けた感じがして眩しいようでした。

その夜、アンの家で留学中に訪れたいろいろの町のスライド写真を映写しながら慣れた英語で積極的に解説をして見せてくれました。船でご一緒したときにはおとなしそうに見えた彼女もアメリカでいろいろな経験をし逞しくなったみたいで私も嬉しくなりました。アンも彼女を好きになったようで素晴らしい女性だと言っていました。

67. 二年目の大きな出来事

私は2年で数学科と物理科の両方の学部を卒業して大学院で理論物理を専攻するつもりでした。ところが数学科は卒業出来たのですが物理科の方は詰まらぬ手違いから学部卒業に必要な単位を一つだけ取り損なってしまったのです。アメリカの友人達はたった一つの学科のために留学を一年延ばさなければならないことを知り「学費が大変だろう」と言って大いに同情してくれました。確かにもったいないとは思いましたが実際は日本語科のTA(ティーチングアシスタント)の職を持っていた上に他のアルバイトもちょくちょくあって滞在が長引けば長引くほど貯金は増えてゆく状態でした。

私はいつも思わぬことに出くわすと「人間万事塞翁が馬」と考えることにしています。もし最初の計画通り2年間で物理科の学部を卒業してどこか他の大学の大学院にでも行ってしまっていたら今の家内と一緒になることが無かったかもしれません。最もそれが良かったかどうかと言う事は別問題でしょうが。 私はとりあえず大学院の数学科に席を置くことにしました。

2年目も終わろうとしていた頃のことです。半年近く文通の途絶えていた日本のガールフレンドから一通の手紙が届きました。「今まで長いことお世話になり有難うございました。今日庭で今迄にいただいた手紙を全部燃やしました。」と言う短い文章が入っていました。
読んだときは一抹の寂しさを感じざるを得ませんでしたが彼女が自分で判断したことなので素直に受け止めることにしました。これから先どれほど海外にとどまるかもしれない人を待つよりもいい人が見つかったら良く考えて自分の人生をえらんでほしいと伝えてあったのです。私もハウスボーイをしていたミセス、プライス家の裏庭で彼女から貰っていた何枚もの手紙を燃やしたのでした。