2010年5月29日土曜日

5. 留学への準備(4)

ワシントン大学から入学許可の書類が届いたのはそれから間も無くの事でした。最後に解決しなければならなかったのは渡航費です。飛行機代は当時の金で30万円以上していましたからとても工面できる額ではありません。いろいろ悩んでいる時叔父が貨物船で行ったらどうだと言いました。仕事の関係で知っている船舶会社に頼んでアメリカ行きの貨客船(貨物船だが少人数の客も乗せられる船)に乗船できるよう頼んでやろうと言うのです。これで決まりです。船賃の9万円は大学時代家庭教師でためたお金で買っていたポンコツ車が5万円で売れましたので差額を親に出してもらうことで解決です。但し渡航手続きは旅行会社に頼むとお金がかかるので親友の先輩が勤めていた旅行会社に出向き自分で書類を作りたいと言うとその先輩は「こんなの自分で作る人などいないぞ」と言いながらも私の熱意に押されて丁寧に書類作成を手伝ってくれたのでした。

留学を一年先延ばしにしたおかげで大分時間に余裕が出来ました。英会話だけではもったいないので早稲田大学に入る前から手がけていたフランス語とドイツ語の会話にも力を入れ毎日フランス語とドイツ語で日記をつけ将来に備えました。私はアメリカで勉強した後はフランスとドイツに渡りそれぞれの言葉を勉強したいと思っていたのです。高校時代に英語の恩師からEtymology(語源学)の面白さを教わり毎日のようにWilliam SkeatのEtymological English Dictionaryで学校で習った英単語の語源を調べるのに時を忘れるほど熱中していたので自然と多くの言語に興味を持つようになっていたのです。大学受験でも理科系に進むか外語大にするかずいぶんと迷ったものです。ここで一見アメリカ留学に関係ないように思われる第二外国語の話をしたのはこれらの外国語がアメリカに渡ってから思わぬところで大変役に立ったからです。

話は変わりますが当時留学を考えるのに参考になった書籍が3冊ありました。 犬養道子の「お嬢さん放浪記」(1958)、ミッキー安川の「ふうらい坊留学記」(1960)、そして小田実の「なんでも見てやろう」(1961)です。中でもミッキー安川の「ふうらい坊留学記」には大変勇気付けられました。なぜなら私と同じように一人の知り合いもいないアメリカに単身乗り込みいろいろなアルバイトをして頑張った話だったからです。アメリカに渡ったのもこんな背景があったのですが最終的には挫折し理論物理の勉強を諦め数値解析を学び帰国後はコンピューター分野に身を投ずることになったのでした。それでも若いころの夢は忘れがたく今でも事あるごとに物理の解説書を読みあさっています。 留学した当時はクォークが話題の時代でしたが最近では超ひも理論(Super String Theory)の時代になっています。 超ひも理論で大統一理論が完成に近づきつつあるようで興味津々ですが10次元の話なので私の頭では理解するのが難しいようです。 こういった現実離れした話に没頭していると膨張を続ける大宇宙そして150億年もの時空の中にあって我々の存在は小さな小さな点にもならないような気がしてきます。 この小さな小さな人生を如何に悔いなく全うするかを考える今日この頃です。
さて、長ったらしい前置きはこの辺にしていよいよ横浜港から青春の船出をするところからお話を始めましょう。

4.留学への準備(3)

先にお話したように私は機械科の専門科目で13もの「不可」をもらっていました。幸いなことに早稲田の場合は取り直して「優」とか「良」を取れば「不可」は記録に残りません。
3年の時は留学に成績表の提出が必要だなんてことはまったく頭になかったものですからクラスにも出ず、教材も読まず試験を受けたのです。 「不可」となるのはあたりまえだったのです。見かねたクラスメートが試験中模範解答を回してきて写せ写せといってきたのですがカンニングは一切しない主義でしたので他人の模範解答を利用したことは一度もありませんでした。結局追試、追試で「不可」を消して行ったのですが一夜漬けではなかなかよい点は取れません。何科目かは追試の追試を受けました。それでも合格点がとれない科目が一つ残りました。担当のO教授のところに行き留学したいので何とかしてほしいと掛け合ったところ「よし、分かった。ここに座って俺の解説をよく聞け。そして解説が終わったところで俺がわかったかと聞くから、分かりましたと答えてくれ」と言われたのです。解説が終わり教授が「解ったか?」といったので私は「はい解りました」と答え、合格点をいただいたのでした。

さて、最後の難問が担任教授の推薦状です。あたって砕けろです。卒論でご指導いただいたT教授に英会話学校の先生に協力してもらって作成した英語の推薦状を持って行きサインしてほしいと拝みこみました。 T教授はその推薦状をしげしげと見つめ「君、Excellentという言葉の意味を知っているか?」と言われました。 確かに推薦状には私がExcellentな学生で入学以来クラスをリードしてきたと書いてあります。「はい、知っています」と答えると教授は「この推薦状、俺は許すが早稲田が許さないぞ」と言われたのです。これにはぐうの音も出ませんでしたがここで挫けたらそれまでの努力が水の泡です。T教授には私の留学に対する長年の思いを切々と訴えました。そして終に自分で作成した推薦状に教授のサインをいただく事が出来たのでした。

3. 留学への準備(2)

そうこうしているうちに早稲田を卒業する同じ年の秋からの留学はタイミング的に難しいことがわかりました。「俺も一緒に留学するよ」と言っていた学友達も就職試験が一段落した頃気がつくと皆一流企業に就職が決まっていました。結局どこの会社も受けなかったのは私一人だったのです。他人を当てにしてはだめだ、よし、何がなんでも一人で留学して見せるぞと心に決めたのはこの時でした。留学を一年間先に延ばしてその間出来るだけの準備をしておこうと思いました。英会話をしっかり勉強しておかねばなりません。英語はどちらかと言えば得意科目でしたのでボキャブラリーには可なり自信があったのですが無口がわずらいして会話が苦手でした。そこで複数の英会話学校を掛け持ちしたり、ジャパンタイムズで英会話教えますとの広告を出していたいろいろな外人に教えを請いに行きました。ワシントンハイツの米軍将校夫人とか、フィリピン大使館の領事の奥さんとかイギリスから来た風来坊の青年とか米国の牧師さんとか手当たり次第に習いに行ったり親しくなって一緒に旅行したりして会話力をつけてゆきました。又、ユースホステルの2・3の英語クラブにも参加しました。そこで知り合った友人が新しい英会話のクラブを設立する時にも協力し外人ハントの会なども催しました。

私費留学のためにはまず科学技術庁の試験にパスしなければなりませんでした。その試験は心配したほど難しくなくパス出来たのですが問題は留学先の大学を決めなくてはなりません。自分としては理論物理の分野で有名だったプリンストン大学、パーデュー大学、コロンビア大学とかいったところに行きたかったのですが入学要綱を取り寄せてみるとほとんどの大学が私費留学の場合米国内に保証人が居ることを受け入れの条件としていることが分かりました。日本では顔の広かった親父もアメリカには一人の知り合いもいませんでした。十数校手紙を出しておいたのですが保証人なしで受け入れてくれる大学はシアトルのワシントン大学1校でした。これで留学先の大学は決まりです。次なる問題は入学許可を取ることです。要求されたものは早稲田の成績表、担任教授の推薦状、信頼できる機関による英語力認定書、そして日本の保証人である父親の1,400ドル以上の銀行口座残高証明書でした。英文の残高証明書は銀行が用意してくれましたし、英語力認定書は会話学校の米国人教師が快く作ってくれました。問題は大学の成績証明書と教授の推薦状でした。

2. 留学への準備(1)

試練の準備期間-留学への歩み(少々堅い話なので読み飛ばしていただいて結構です)

ここでどうしてシアトルのワシントン大学に留学することになったかについてちょっと触れておきたいと思います。
ハイゼンベルクの不確定性原理(Uncertainty Principle)は私の人生観、そして進路に大なる影響を与えた原理です。 アインシュタインが亡くなったとき高校の数学の教師が不確定性原理の話をしたのです(何故相対性理論の話ではなく不確定性原理の話になったのかは未だによく分かりません)。 それまで機械論的な宇宙観に偏っていた私は目が覚める思いがしたのです。 アインシュタインは「神はサイコロを振り給わず」と主張し続けたと言われていますが量子論には「シュレーディンガーの猫」や「多世界解釈」とかSFのような話題が多く面白いですね。 日本では早稲田大学の理工学部機械科に入ったのですが機械科の勉強もそこそこに量子学を勉強すべく大学の図書館で理論物理の本ばかりを読んでいて授業にはほとんど出ませんでした。 4年でなんとか機械科を卒業出来たのですが実際のところ授業に出たのは2学年目と卒論を真面目にやった4学年目ぐらいです。 3学年の時には13科目の専門科目全部「不可」という素晴らしい(?)成績でした。そんな頃久しぶりにクラスに出ると隣に座った同級生から「途中から編入した方は大変ですね」と言われました。 編入生でない私の顔を3年間教室でほとんど見たことがなかったからでしょう。
量子論を勉強したいと言う願望と同時に、私には幼い頃からアメリカに行ってみたいと言う夢がありました。そんなわけで量子力学を勉強しにアメリカの大学に留学しようという考えが固まってきたのでした。

ところが留学の準備を進めるうちに大変なことがわかってきました。まず、留学の費用をどうするかです。当時の為替レートは1ドル360円で大学卒の初任給が1万2-3千円の時代です。親父の月給も6万円弱だったと記憶しています。最初の半年分ぐらいの学費は親にせびれても長期間は無理です。そこでスポンサー探しから始めました。まず、YWCAで英文タイプを習い中古のRemingtonポータブルタイプライターを1万2千円で購入し、アメリカでスポンサーになってくれるかもしれないと思われる諸々の研究所とか協会に手紙を出しまくったのです。滞在費だけでも出してくれるところがあれば助かると思ったのでした。アメリカと言う国はすごいと思いました。出した手紙にはすべて丁重な返事が来たのです。但し、招待してあげようと言うものはひとつもなくすべての返事は「貴君の熱意には敬意を表するが同じ研究は日本のどこそこの研究所(又は大学)でやっているのでそこを紹介しよう」というものでした。研究テーマそのものを学びたかったのではなくて渡航費を出してくれるところを探したかったのでこれではまったく目的にかないません。フルブライト奨学金などは成績優秀でないとだめだし、こうなると私費留学を考えなければなりません。

2010年5月16日日曜日

1.<グッジーの青春放浪記>まえがき

インドに「6人の盲人と象」という寓話があります。6人の盲人があるとき象を触ったときの話です。象の鼻に触った盲人は「象はへびのようだ」といい、耳に触った盲人は「ウチワのようだ」といい、足に触った盲人は「木の幹のようだ」といい、胴に触った盲人は「壁のようだ」といい、尻尾に触った盲人は「ロープのようだ」といい、牙に触った盲人は「槍のようだ」といってお互いに自説を譲らなかったということです。

私は青春時代にアメリカ、フランス、ドイツに遊学(?)して自分自身が体験したことを基に書くつもりです。しかし、私も一人の盲人に過ぎなかったのではないかと考えています。ですからこの国はこうだとか何国人はこんなものだとか決め付ける気持ちは毛頭ありません。唯こんな一面を見たぞというだけではありますがその一面が自分の思っていたものとまったく違っていたものも多かったのです。私のお話は1962年に始まり1966年までつづきます。その間アメリカではミズリー州立大の黒人学生問題、キューバ危機、そしてケネディー暗殺が起こりました。フランスではベンバルカ事件、フランス人工衛星ディアマンの打ち上げ成功、そしてドゴールとミッテランの大統領決戦投票があり、ドイツは未だ東西分裂が続いていました。アジアのインドネシアではスカルノ大統領がクーデターにより失脚、日本では東京オリンピックが開催されそれに伴って高速道路や新幹線が作られました。

私はフランスより船で戻ってきたのですが横浜まで待ちきれずに神戸で下船し名神高速バスで名古屋に出て名古屋からは東海道新幹線で東京に戻ったものでした。街の道路標識がインターナショナルのものに置き換わっていましたし、日本を出る時には街に見られなかったコンビニがあちこちに出来ていたのに驚かされました。では横浜出航のところから話を始めましょう。いや、その前にちょっと留学にいたる経緯をお話しますのでもう少々お付き合い下さい。