2010年9月29日水曜日

62.日本語のクラス(3)

日本語集中コースを担当しだして二週目の授業中、日本語科の主任教授、Dr.Niwaが突然教室の後のドアから入ってきて最後部座席に座り暫く注意深げに私の授業を観察して出て行きました。さあ、勤務評定かなと思っていましたが次の週の職員会議の席上Dr.Niwaから驚きの発表がなされたのです。「みなさんの授業を見学させていただきました。私がお願いしたことを忠実にやってくださっていたのはシモヤマ先生だけでした。」と少々ご機嫌ななめな顔で一同を見回しました。理系の私以外の先生方は皆さん文科系でしたので何かご自分の特色を出そうとされて授業に変化をつけられてみえたのでしょう。私は文学の素養がありませんから教材を音読するだけに努めていたのが良かったのです。

実は私も授業中に学問的な脱線はしませんでしたが生徒の緊張をほぐす為に時々冗談を言ったり、クイズを出したりはしていたのです。Dr.Niwaが教室に入って来た時は運良く真面目に教材を音読している場面だっただけでなのです。クイズの例を挙げれば次のようなものです。何のことかわかりますか?
1. Please make space between King and and and and and Queen.
2. To be to be ten made to be.
3. You might think do today’s at fish.
1は岩田一男先生の本に載っていた正式な英文です。作り話かもしれませんが童話作家がちじこまった字で「KingandQueen」と書かれるのでKingの後とQueenの前にスペースを空けてくださいとお願いした文だと言うことです。そう考えると確かにまともな英文ですよね。2番目は日本語の「飛べ、飛べ天まで飛べ」をローマ字で書いただけです。3番目は一寸ふざけていて支離滅裂なものですが「言うまいと思えど今日の暑さかな」を英単語を使って表したものだそうです。

こんなふざけた一面を見られなかったお陰でDr.Niwaにはすっかり気に入られたようです。それからと言うものあれこれと新しい教材作りのお手伝いを頼まれることになったのです。

2010年9月28日火曜日

61.日本語のクラス(2)

サル山にボスが存在するように日本語集中コースのクラスにも一人ボス的存在の生徒がいました。香港から来ていた小柄なリーさんです。彼は常にクラスの最後部で足を前の机にのせ小さめのハンチングを被ってふんぞり返って座っていました。これだけ聞くと手に負えない厄介な生徒と思われそうですが、リーさんはとても協力的でやや癖のある日本語でクラス全員を取り仕切ってくれていました。私はリーさんのことを小さな王様と呼んでいました。

金曜日になるとリーさんから声が掛かります。「先生、今夜うちで飲み会をしますから来てください」と言います。彼の下宿に行くとクラスの全員がそろっていて歓迎してくれるのでした。みな一生懸命、習いたての日本語で会話をしています。私を交えて日本語会話の実習の場となっているのでした。ただ、フランスに駐屯していたことのあるクリストファーさんだけは私がフランス語を勉強していることを知っていつもフランス語で話しかけてきました。あまり熱心なので私も出来るだけフランス語で答えるようにしましたが皆が日本語で話す努力をしているのだから「日本語を使えよ」と言いたいところです。 するとすかさずリーさんが「ここでは、日本語、日本語!」と言ってクリストファーさんを窘め助け舟を出してくれるのでした。

毎週のように続いたこの金曜の飲み会は私にとっても楽しい憩いのひと時でした。日本でパチンコに凝ってしまいパチンコの機械を持ち帰ってきていた女生徒、又、宝塚歌劇団に夢中になっていた女の子がいること、そして一昔前にアメリカでも麻雀が大流行した時期があったこと等を知ったのはこの飲み会からでした。

60. 日本語のクラス

私が担当したのはIntensive Japanese Course(日本語集中コース)のアンダーグラジュエイト(学部)のクラスと大学院の一コースでした。学部のコースは一年間で日本語を叩き込もうとする集中コースで生徒を一年間日本語漬けにします。基本的には日本語の基本文例の繰り返し練習で私がまず教科書の基本文例を音読しそれを生徒に復唱させるのです。これは教科書が与えられたのであまり準備の必要がなく楽でしたが大学院のクラスともなると朝日新聞の社説を教材としていました。社説など日本にいたときにあまり真面目に読んでいなかったものですから前もって内容をよく読んで学生達からの質問に答えられるよう前準備が必要でした。

日本語集中コースの方は10名ぐらいの少人数でしたが最初からある程度日本語を話せる生徒がかなり混ざっていました。生徒はいろいろな経歴の持ち主です。日本での生活経験のあるウイリアムさん、ジョージさん、ハワイから来ていた日系二世の男子生徒ナコさん、ポリネシア系美人のロビンソンさん、香港から来ていたリーさん、アメリカ白人のキャンベルさん、元日本駐在軍人のクリストファーさん、フォーサイスさん、そしてシアトルの日本食材店<宇和島>の娘さんとその友人等々なのでした。初めて日本語の勉強を始める生徒も混ざっていましたので出だしは生徒のレベルがかなりばらばらですが、何も無いところから日本語を勉強する生徒は熱意が違います。一学期(3ヶ月)も経つ頃にはそのような生徒が頭角を現してくるのです。外交官を目指していたウェストマーさんはその良い例でした。彼は私が帰国してから待望の外交官となり在日米国大使館に赴任しました。そこで大使館官舎でのクリスマスパーティーに私を招待してくれたことがあります。

1授業の単位は50分です。ベルと同時に授業を開始し終業のベルが鳴ったら直ちに授業をやめます。10分間の休憩時間中に生徒は次のクラスへと移動しなければならないのです。ですから教師は50分間でぴたりとその日のノルマを教えなければなりません。積み残しは出来ないのです。生徒の方もこの点を良く理解していたようで私のペースによく協力してくれ、ノルマをこなせなかったことは一度もありませんでした。

2010年9月19日日曜日

59.日本語の教師となる

ケネディ大統領の下、極東での異文化を理解しないがために起った諸々の摩擦が問題視されて極東の文化・言語学習の必要性の機運が高まりワシントン大学も極東の語学・文学にかなりの力を入れていました。日本語も結構人気があり、かなりの数の生徒が日本語を専攻していました。そんな時、日本語・日本文学科で助手を一人募集していると言うのを小耳にはさみました。これは是非やってみたいと思い早速、日本語科の主任教授のドクターTamako Niwaに売り込みに行くことにしました。 「では、試験を受けてください。」と言って手渡されたのは日本の中小企業をテーマとした英文の論文でした。「これを日本語に訳してください。」と言われ翻訳を始めました。結構長い論文でかなりてこずりましたが何とか八割ぐらいを訳した時点で「ここまでにしましょう。」とドクターNiwaは私からペーパーを取り上げ、「結果は後ほど通知いたします」と言いました。まさかアメリカまで来て英文和訳の試験を受けることになろうとは思っていませんでした。国語が大嫌いだったこの私がアメリカとはいえ日本語を教える立場になるなどは考えられないことです。ところが予想に反して結果は合格だったのです。他にも応募者がいたのですが東京生まれの私が標準語を話すと言うことで選ばれたらしいのです。

日本語科のスタッフは主任教授の日系二世のドクターTamako Niwa、に日本から来られたドクターMayako Matuda(この方は女性ですが医学統計学で博士号をとられていました)が副主任のような役割をしておられました。それにハワイ大学から客員教師として来ていたR女史、東京大学からみえたO講師、ワシントン大学留学生のO氏、才媛の誉れ高かったTさんに私を加えた6名でした。私はTA(Teaching Assistant)で教員の中では一番の下っ端ではありましたがファカルティーの一員としての特権を与えられたのは嬉しいことでした。一般の学生が駐車できるのはキャンパスのはずれの大駐車場でしたが、ファカルティーには学部建物横の駐車場が与えられます。一般学生駐車場より10分ほど教室までの時間が短縮されるのでとても楽になるのです。それに週給$140と言うのも嬉しい収入でした。

2010年9月7日火曜日

58.夜汽車の美少女

それはパサディナのローズボール観戦を終えロスからシアトルへ戻る車中でのことでした。列車に乗り込み周りを見ると窓際に可愛い少女が一人座っているが目に入りました。横の席に座っていいか尋ねるとその少女は愛くるしい笑顔で頷きました。年の頃十二・三歳です。薄いピンクのカーディガンにグレーのスカートをはいていました。アグネスチャンに似ていて色白ですが頬はほんのりとピンクかかっています。お化粧はしていません。夜汽車だったので少女の顔が窓に映って輝いて見えました。

列車がロスを発って暫くすると少女は雑誌のようなものを取り出して盛んに鉛筆を走らせ始めました。そっと覗き込むと四角い升目にいろいろな英単語を埋めているのです。ボナンザグラムです。暫く見ていると気が付いたらしく「やってみる?」と話しかけてきました。どうせ少女がやっているのだから大して難しくあるまいと思って見せてもらうと驚くことに20単語ぐらい書かれているうち知っている単語は2・3しかありません。一瞬、英語ではないのではと疑いました。

私は英語のボキャブラリーが留学前に数千語にはなっていた筈です。私はそれまで一頁にこれほど多くの判らない英単語を目にした事はありませんでした。彼女に「これみんな判るの?」と尋ねると当然のように頷きました。少女の年ぐらいで何万語ぐらい知っているのだろうと思うと急に惨めな気持ちになってきました。私の英語に対する自信は粉々に崩れたのです。「全然歯が立たない」と言うと彼女は本をしまって話し始めました。

ロスで結婚した姉の家に遊びに行った帰りだということ、そして正月にロスで姉にとても素晴らしくスリリングな映画を見せてもらったと言うこと。映画のすごかったシーンをいろいろと説明してくれます。どうやらケーリー・グランとオードリー・ヘップバーン主演の「シャレード」のようです。しばらく喋り続けると疲れたのか少女は頭を窓ガラスにもたれかけたまま居眠りを始めました。とても可愛い寝顔でした。

ロスからシアトルまでは直行の列車が無く一旦シスコでシアトルまで行く列車にのり変えなければなりません。汽車がサンフランシスコに着くと少女はさっさと降りて行きました。挨拶もしないで行ってしまうなんて寂しいなと思いながら私はシアトル行きの列車に乗り換えました。するとどうでしょうあの少女が窓際の席に座っていて隣の席を私のために取っておいてくれていたのです。

サンフランシスコからシアトルまでの汽車旅は少女と話が出来たおかげで退屈しないですんだのですが汽車がシアトルに近づくにしたがって少女の口数が少なくなっていきました。最初は眠くなったのかなと思っていたのですがどうも様子が変です。顔から笑みが消え緊張した面持ちに変わってきたのです。汽車がシアトル駅に到着すると今度こそ本当に人を無視するように挨拶も無く列車から飛び出して行きました。私がホームに降り立つと少女は迎えに来ていた父親の胸に抱きつきハグをしているところでしたが傍らを通り過ぎた私を見ても「こんな東洋人となどお話などしていなかったわ」と言った態度で無視したのです。家庭で外では見知らぬ人とはお口を聞いてはいけませんとでも教育されていたのでしょうか。私はシアトルに着いてからあまり東洋人としての差別を感じたことはありませんでしたがこの少女の変貌振りにはショックを受けました。私は愛くるしい笑顔で私と話をしてくれた少女の思い出だけを大事に心にしまうことにしました。

2010年9月6日月曜日

57.記念すべきローズ・ボウル観戦

ローズ・ボウル・ゲームの当日、1964年の一月一日は快晴でした。留学生支援オフィスの手配で世話になったロスのホストファミリー、ハンフリーご夫妻は高校生の息子と一緒に私をスタディアムに連れて行ってくれたのでした。我々が入場するころには既に6万人を超える観客が集まっていました。グランドではカラフルな服装を着たワシントン大、イリノイ大両校のチアー・ガール達が応援の練習に余念がありません。躍動感に溢れたチアー・ガール達の眩い動きが目を刺激し、試合開始に向かって知らず知らずのうちに気持ちを高ぶらせてゆきます。

毎年ローズ・ボウルのキック・オフには著名人が招かれます。日本の野球で言えば始球式のようなものです。このオープニングに迎えられるゲストはGrand Marshalと呼ばれています。1964年のGrand Marshalは第34代米国大統領アイゼンハワー氏でした。愛くるしいアイゼンハワー大統領がグランドに現れると観客が総立ちとなり大歓迎です。大統領の短い挨拶が終わるといよいよキック・オフです。

スタンドの片側に陣取ったワシントン大の応援団は応援のフラッグを振り、「Bow down to Washinton、・・」で始まるハスキーの応援歌を歌いだします。応援フラッグの色は早稲田と同じ紫色でイニシアルもWで一緒ですので早慶戦を応援に行った時を思い出します。試合は暫く一進一退でしたがその内イリノイ大チーム優勢のまま前半のハーフが終了しました。ホストファミリーが用意してくれたサンドイッチを頬張りながらしばし休憩です。

後半が始まってもイリノイ大は攻撃の手を緩めず、ワシントン大はますます窮地に追い込まれます。私もその頃にはひどかった頭痛や高熱を忘れて一生懸命に応援しましたが残念ながらハスキーはイリノイ大に17対7の大差で敗れてしまいました。敗れたとはいえ伝統あるローズ・ボウルの試合を観戦できたことは大変貴重な体験だったと思っています。

2010年9月5日日曜日

56.大晦日に本場キッスの洗礼

ロス郊外パサディナでの元日ローズボウルを翌日にひかえた大晦日世話になっていたホストファミリーの家でニューイヤーズ・イブ(大晦日)のパーティーが催されました。ホストファイリーが病院の偉い人であった為でしょうか30代、40代と思われる看護婦たちが20人ほど招かれていました。夜半から始まったパーティーはいつもながらの立食パーティーで参加者は皆自由に動き回って歓談しています。ホストのハンフリーさんは僕を日本から来ているワシントン大学の留学生だと言って参加者一人一人に紹介して回ってくれました。アメリカに来てから覚えたジントニックを何杯か飲んで一人一人の他愛も無い質問に答えているうちに段々と酔いまわってきました。

新年を迎える零時が近づいていました。その時朦朧としている耳に近くで看護婦たちがひそひそ何やら話し合っているのが聞こえてきたのです。「いいのかしらやっちゃって」「日本から来た留学生だって郷に入ったら郷に従えだわ」どうやら意見がまとまったみたいです。まもなく零時、New Yearです。灯りが消されると同時に件の看護婦達が順番に僕に近づいてきたかと思うと一人一人私にキッスをし始めたのです。そんなにディープキッスではなかったが本場のキッスを受けるのは初めてで数人にやられた頃には頭がボヤーットして来ました。酔いのせいかキッスのせいか判りませんがふらふらになり皆さんに失礼して早めに床に着かせてもらうことにしました。何時間寝たでしょうか朝眼が覚めると喉は痛いし、頭も痛む、それに気がつくと物凄い熱です。そういえば昨夜のキッスの中に風邪の匂いのするのがありました。風邪を引いていた看護婦から移されたのに違いありません。ちょっといい思いをしましたがこれでは代償が大き過ぎます。

2010年9月4日土曜日

55.ローズ・ボウル(Rose Bowl)

アメリカに行けば野球が見られると思っていたのですがシアトルの街中で子供達が野球をして遊んでいる姿はほとんど見られませんでした。 当時シアトルには今イチローが活躍しているマリーナーズのようなプロ球団もなければプロ野球用の野球場もなかったのです。スポーツの一番人気はやはりアメフトでした。ワシントン大学にはアメフト用の立派なスタデアムがありハスキー(エスキモー犬)をマスコットとするワシントン大のアメフトチームが出る試合には何時も沢山の観客が集まっていました。 というのもジム・オーエンスというコーチが就任してからハスキー(ワシントン大のチームはこう呼ばれています)はぐんぐん力をつけ常に優勝戦線に顔を出すチームとなっていたのです。何でもこのコーチは大学の総長より高い給料を貰っていたということです。ハスキーは1960年と1961年、二年連続して全米一に輝いた名門チームだったのです。

私が所属していた物理科にブリッグスというハスキーのアメフトの選手がいました。彼は1963年の全米のアメフト大学選手ベストイレブンに選ばれました。彼の活躍もあって、この年ハスキーはまたしても西部地区の覇者となりローズ・ボウルに出場することになったのです。 ローズ・ボウルというのは毎年1月1日にロスアンジェルス郊外のパサディナという街で1947年以降、ビッグ・テン・カンファレンス(東部地区)の大学優勝チームとパシフィック・テン・カンファレンス(西部地区)の大学優勝チームとの間で全米一を争う試合のことです。 クラスメートが出場するのですから応援に出かけたいと思っていたところ幸いにも在学生に割り当てられる入場券の抽選に当たりました。 シアトルからロスまでは結構な距離がありますが大勢の学生達が車に相乗りしてロスに向かいます。まさに民族の大移動といった様です。私は留学生支援オフィスが手配してくれたサンフランシスコのホストファミリーに一泊し汽車で12月31日ロス入りを果たしました。サンフランシスコでお世話になったのは前年のクリスマススキー合宿で知り合いになった牧師さんの家でしたので旧交を温めることにもなったのでした。

2010年9月3日金曜日

54.スキー三昧

シアトルで二回目の冬を迎えました。シアトルでは夏は水遊びが出来、冬にはスキーが楽しめるシアトルはスポーツマンにはたまらない所です。私はスキーが好きでしたので冬になると日本人留学生のスキー仲間とよくスキーに出かけました。時にはマウント・ベーカーのクリスマスキャンプで仲良くなった外人の友人も誘って行きました。シアトルの近くにはスノーコロミー、ハイヤック、スティーブンスパス、クリスタルマウンテンといった手ごろなスキー場が点在していました。私のホストファミリーのアンはスキーが大好きで休みにはよく誘ってくれました。しかも私のためにクリスタルマウンテンのシーズンパスまで用意してくれました。クリスタルマウンテンはちょっと遠すぎてそのシーズンパスを使うチャンスが一度も無かったのが悔やまれます。

プライス家に移ってからは自由時間が増えたので夕食後一人で6時ごろにはぼろ車に乗り轟音とともにマフラーから出る火で周りの林をてらしながら一時間弱で行けるスノーコロミー・スキー場によく通ったものです。夜7時頃にスキー場に着き10時まで3時間滑れます。若かったのでがんがん滑りました。スノーコロミースキー場の中では一番短いゲレンデでのことですがロープトウを使って3時間で100回滑り降りた記憶があります。

後に結婚式で私がベストマンを努めることになったスキー仲間の日本人留学生Jさんは頑張ってこのスキー場でアメリカのスキーコーチの資格を取りアルバイトで教えていました。そんなわけでJさんともよく一緒に出かけました。Jさんの指導のおかげでスキーではあまり怖い思いをしないですみましたが一度スノーコロミーからの帰り道に自動車でで危ない目に遭ったことがあります。

その日はJさんの車(やはりぼろ車でした)で出かけていたのです。スキーを終えて車に乗り込みスノーコロミーを後にしました。雪道ですので当然ながらタイヤにはチェインを装着していました。30分も走ると雪道が終わり路面がはっきり見えるようになって来ました。そろそろチェインをはずそうかと言うことになり路肩の広いところでチェインをはずしたのです。その場所から走り出してほんの数分後のことです。目の前の景色が急に大きく回り始めたかと思うと車が180度回転し後ろから走ってきていた車に正面衝突です。後続車があまりスピードを出していなかったので大事には至りませんでしたが冷や汗ものでした。路面が凍っていた上Jさんの車のタイヤは溝が無くなりつるつるだったのです。

53.デートあれこれ

シアトル時代に私が外国人女性と一対一のデートをしたのは後にも先にも前にお話ししたドイツからの留学生ギゼラとの一日デートとフランス語クラスのアメリカ人学友スーザンとの昼食のデートの二回しかありません。 私が取った中級フランス語は2学期にまたがっていました。最初の学期で「A」を貰ったのが3人いて私とスーザンがその中に入っていました。スーザンは金髪のロングヘアーで可愛い顔をしていましたがちょっと気位が高く出来の悪いクラスメートを見下しているところがありました。あまり好きなタイプではなかったのですが私が「A」を取ったことを知ると彼女から話しかけてきたのです。「来学期も頑張って一緒にAをとろうね」と。そして「A」を取ったお祝いに一緒に食事に行こうと彼女から誘ってきたのです。断る理由はありません。彼女の行きつけのレストランに行きました。ところがとんでもない結末が待っていたのです。レストランに入って間もなくすると私は急激な腹痛に襲われ始めました。スーザンとろくに会話も出来ずにトイレに通い詰めとなり、しかも支払いの時になって財布を忘れて来たことに気がついたのです。結局スーザンに支払ってもらい彼女を家まで送り届け早々に引き上げる羽目となったのです。それ以来彼女から話しかけてくることはありませんでした。全く惨めなデートの思い出です。

車を持っていた日本人女子留学生は少なかったこともあり車を持っていた私はよく「アッシー」の役を仰せつかったものです。ですから幾人かの日本人女子留学生とは一対一でドライブすることは往々にしてありました。それがデートと呼べるならそのようはデートは何度もしたことになります。ある時Sさんと湖半に車を止めて美しい天空の星を眺めながら四方山話しをしていました。夜風が涼しいので窓は閉めていました。

ふと気がつくと周りの木々がサーチライトに照らされて明るくなりました。その明かりがだんだん近づいてきたのです。何事が起こっているのだろうと息を凝らしていると車のドアを叩く音がします。はっと顔を上げるとお巡りさんが覗き込んでいるではありませんか。

52.T氏の外国人女性くどき術

アメリカに留学すれば可愛い金髪女性とすぐにでも仲良くなれるのではという私のはかない夢は留学後まもなく粉砕してしまいました。内気な私にはとても女性に声などかけられません。ところが日本人留学生の中にも次から次へと可愛い子をナンパしている人物がいました。私と同年輩のT氏はいとも簡単にアメリカ女性と懇ろになっていたのでした。ある日Tさんが「女性くどき術」を伝授するからと言って彼の下宿に連れていってくれました。部屋に入るとソファーが置いてあり、その向こうにオーディオセットがあります。まず女性をソファーに座らせ、部屋を薄暗くしてムードある赤い電球を灯し、ムードミュージックを流すのだそうです。次に何気なく女性の傍らに座りしばらく雑談をし、ムードが盛り上がったところでまず彼女の髪を褒めるのだそうです。そして時を見計らって彼女の髪を撫で、髪にそっとキスをするのだそうです。そこで彼女が嫌がらなければもうこっちのものだとT氏の説明です。

次から次えと彼女を変えていたT氏も裏ではそれ相当の準備をしていた事が分かりましたが、彼のテクニックにしろ以前下宿同居人のウディーが教えてくれた方法も、いずれも最初にこれと思う女性に声を掛けるところから始まるのですから女性に声も掛けられない私には利用出来ないものでした。後日談ですが数十年後、あちらの大学の教授になっていたこのT氏が客員教授として東京大学に赴任したことがありました。たまたま仕事の関係で知っていた同じ学部のY教授にT氏の昔話をしたところ「そんなことは信じられませんT教授はとても真面目な方です」と一蹴されてしまいました。人間とはずいぶん変われるものだなあと思いました。