2010年6月30日水曜日

29.奨学金にチャレンジ

12月になって秋の学期も終わり成績が出ました。数学が2科目とも「A」でしたが肝心の物理の2科目は両方とも「B」でした。従ってGPAは3.5です。物理はちょっと背伸びして実力以上のクラスに編入してしまったみたいです。最初の学期ですからまあまあと言えない事はないのですがこれでは将来の計画が狂いそうです。そんな時、留学生支援事務所のジーナから留学生向けのScholarship (奨学金)があるから応募してみたらと言われました。

奨学金などは学業が飛びぬけた生徒のみがもらえると思っていましたのでしり込みしていると「駄目もと」だから応募してみなさいと言ってアプリケーションフォームを渡されたのです。半年先からの留学費の工面に頭を悩ませていたものですから素直に応募してみることにして書類をジーナに提出しました。数日後、銀行から電話が掛かってきました。「あなたの口座に1万2千ドル入金がありました」というのです。どう考えてもありえない話です。親に仕送りを頼んでいませんし、そんな大金が家にあるわけがありません。 奨学金だって生徒に直接支払われるわけではなく大学に支払われて生徒の授業料が免除になるだけです。「何かの間違いだと思うので良く調べてほしい」と言っても銀行側は「間違いないの一点張り」です。

私はアメリカの銀行を全く信用していませんでした。下宿が決まってすぐに大学近くの銀行に自分の口座を開いたのです。通帳を開いてみると計算間違いが見つかったのです。担当したテラー(銀行の窓口出納係)に言うと誤りを認めすぐに修正はしてくれたのですが一言の謝りもないのです。日本の銀行だったらまず考えられないことです。やはり今回も翌日になって電話が掛かってきました。「昨日の入金は間違いでした」とそれだけです。

さて、肝心の奨学金の方は二週間ほどして事務局からの手紙が届きました。「I regret to inform you ・・」で始まる文でした。要するに審査委員会は私への次学期の奨学金支給を見合わせたと言うのです。もともとあまり当てにしていなかったのでそれほどショックはありませんでした。ジーナに告げると「今回は見送られたけれど成績が悪いと言うことではなくあなたがこの成績を持続できるかどうかもう一学期みたいと言うのが審査委員会の意見だったのよ」と教えてくれました。この留学生を対象とした奨学金制度は国別にQuota(割り当て)が決まっているので応募者の少ない日本の場合は良い成績さえ残せば比較的楽に獲得できることも教えてくれたのです。競争の激しい台湾の場合などはオール「A」でも取らないといけないようでした。それが事実ならば冬学期でよい成績をキープできるように頑張ればいいので悲観することはありません。

2010年6月29日火曜日

28.高校レスリングチャンピオンとの対決をせまられる

キューバ危機問題も一段落し11月に入りました。大学の留学生支援事務所はフレンドシップツアーと称して留学生の為に休みを利用してシアトル近辺のツアーを組んでくれます。その一つにシアトルから南にやや下った田舎町チャハリスの家庭でThanks Givingの休日を過ごす催しがありました。一時間程汽車に揺られてチャハリスの駅に到着すると留学生一人一人に世話を割り当てられた家族が迎えに出ていました。私を迎えてくれたのはかわいい高校生の女の子とその弟を両腕に従えたウイリー夫妻でした。その女の子とはその後しばらく文通をしていたのですが今では遠い昔の話となってしまい名前も思い出せません。

招待された留学生達は一旦それぞれ世話になる家庭に連れて行かれ一休みした後、また全員集合し早速町の見学が始まりました。最初は立派な観客席の着いたアメフトのスタデアムに案内されしばし高校生のアメフト試合の観戦です。ルールが良く理解できませんでしたがピチピチした女子高校生の躍動あふれるチアガールの応援は目に焼きつきました。次に連れて行かれたのは町の乳業製品加工工場です。そこでご馳走になったアイスクリームの味は格別でした。 

夜になるとツアーに参加した留学生全員が高台にある町の有力者の豪邸に招待されました。ハリウッド映画でしか見たことがないようなゴージャスな館でプールには水が青々とたたえられています。シャンペンが抜かれ町のお偉方の歓迎挨拶が終わると園遊会となり留学生たちと町の人達の歓談が続きます。 宴もたけなわとなった頃歓迎会のホストであるこの館の主が近づいて来ました。「一つここら辺で空手か柔道の術を披露してもらいたいのだが」と言うではありませんか。大学生時代に体術と言う柔道と剣道をミックスしたような武術をしばらく習った経験はありましたが黒帯を取っていたわけでもなく、かろうじて受身が出来る程度の私が何故指名されたのでしょう。日本からの留学生の中には2段とか3段の黒帯の猛者がいたのです。はたと気が付きました。彼等は背も高く日本人離れした体格の主だったのです。これだ、私は背も高くなく小柄な方です。柔道は小さいものが大男を投げ飛ばすと言う妄信があったのです。そこで小柄な私と現地のレスリング高校チャンピオンとを戦わせると言う私にとっては至極迷惑な話が出てきたのでした。

そっと町長の後ろを見ると体格のいい若い男が立っていました。無下に断れば親善パーティーの雰囲気を壊してしまいかねません。といって体格の良いレスリングチャンピオンなどどう考えても倒せるわけがありません。しばらく途方にくれてシャンペンをお替りしながら心の準備をしている振りをして時間を稼ぎました。それでも館の主は諦めません。またもや催促です。「タタミ有りますか?」とっさに出た私の言葉。「えっ、タタミ?ないね。ここのフロアじゃだめかね?」そういわれて指差されたフロアを見ると一面大理石です。「こんなところで投げ飛ばしたら受身を知らない相手の方は大怪我をしてしまいますよ!」とここで一気に上手に出てみました。するとどうでしょう町長は件の高校生の元に行き何やら説明していました。しばらくして戻ってくると「分かったわが町の高校レスリングチャンピオンを傷つけるのはやめにしよう」と言ったのです。その後のアルコールのなんと美味かったことでしょう。 

27.キューバ危機

10月も半ばを過ぎたある朝、下宿を出て物理の教室に向かっていました。下宿からキャンパスまでは歩いて5-6分です。大学の構内に入るとなんとなくいつもとは違う雰囲気です。すれ違う学生達が皆早足で歩いています。パナマから来ていた同期の女子学生は目に涙を浮かべて通り過ぎて行きます。いつもならニコッと笑顔を返してくれる子でした。教室に着いてやっと事態が飲み込めました。米国民を戦慄させる大問題が起こっていたのです。世に言う「キューバ危機」です。

1962年10月22日にケネディ大統領は、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であることを公表、ソ連に同基地の撤去を要求、ミサイル搬入を阻止するため海上封鎖を実行するとの声明を出したのです。 ソ連はこれを拒否しミサイルを積んだ船はキューバに向かいつつあり、米ソの正面衝突の危機が高まったのです。

時はまさに米ソ冷戦状態の真っ只中で「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことでアメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買い占める事態が起きたのです。この緊張は10月28日にソ連のフルシチョフ書記長がミサイル撤去を約束するまで続きました。

下宿の部屋にはテレビなどなく私の情報源と言えば日本から持っていったポータブルラジオが頼りでした。夜、勉強しながら聞いていたのは音楽番組が中心で、この重大ニュースを聞き逃していたのでした。 終わってみれば一週間ほどの短期間の出来事でしたがあの張り詰めた空気は忘れることが出来ません。

2010年6月24日木曜日

26.最初の中間テスト

10月に入り数学のクラスで最初の試験がありました。結果は100点満点の90点でそのクラスでダントツのトップでした。 90点と言っても10点減点されたわけではなく英語での試験は始めてのことだったので問題を理解するのに慎重になりすぎ時間をなくしたためでした。手を付けた問題はすべて出来ていましたので実質満点のようなものです。クラスの平均点は28点でしたのでクラスの皆からは「Kill’m!」、Kill’m](Kill himのことで「やっちまえ!やっちまえ!」ということで、ブーイングの一種)と盛んにと野次られました。

翌日その科目担当のテーラー教授から呼び出しが掛かりました。 教授の前に座ると「I’ve got a hunch that ・・」で始まる一種の尋問が始まりました。「君は既に同じコースを日本で取っていたのではないかね?」と。出来すぎだと言われるのでした。「いや日本で同じコースは取っていません。今回の試験範囲の内容はこちらで習ったのがはじめてです。」と答えるとそうかそれでは仕方がないと認めてくれました。

なぜ留学生がダントツの成績を取ったのが問題なのかは後ほど判って来ました。ワシントン大学で私のとった数学、物理、語学等のクラスは大体20名から25名の受講生であり各クラスで評価Aを取れるのは2~3名まででした。日本では絶対評価が多く一部の教授はクラスの半数ぐらいの生徒に優(A)を与えることもあるようですがワシントン大の少なくとも私が取ったクラスでは相対評価で採点されAを取るのは結構難しいことだったのです。評価がAになるか、Bになるか又はCになるかは学生にとって大変な関心事なのでした。 評価は各自のGPAに反映されそれが奨学金獲得や大学院で希望科目の専攻が認められるか等の判定に使われるからです。

25.無知なアメリカ人、無知な日本人

日本人ならほとんど誰でもアメリカのことを知っています。大統領が誰で、首都はどこで人々が何語を話しているかという事ぐらいはです。ところがアメリカの人は親日家でもない限り日本のことをあまり正しくは知っていませんでした。日本の首相の名前を知っている人はまずいません。アメリカに行けば世界地図の中心は日本ではありません。東のはずれに小さく載っているだけでありまさに日本は極東なのです。

留学して間もない頃ワシントン大学の大学院の学生に「日本では未だ紙の家に住んでいるのですか?」と訊かれエッ冗談でしょうと思いました。又、ある時教会の牧師の家に食事の招待を受けた時です。「日本人は未だ皆着物を着ているのですか?」と聞かれました。そのうちに牧師はニューヨークの話を始めました。ニューヨークは高層ビルが沢山あり、地下には電車が走っているのだよと説明を始めたのです。地下鉄の話でした。日本に何十年も前から地下鉄があったなどということは想像も出来なかったのでしょう。地下鉄を見たこともない人にどうやって説明しようかと言う態度でした。日本にも地下鉄があるとはよう言い出せませんでした。

ある時シアトルの名門高校に社会科の一日講師として招かれました。私の講義が終わって生徒からの自由な質問の時間となり一人の生徒が手を上げました。「Geishaのことを説明してください」と言ったとたん横に控えていた社会科の先生が「その質問はだめ。」と言ったのです。社会科の先生がこんなでは日本のことを正しく理解できるわけがありません。

勿論日本のことを驚くほど良く知っている人にも出会いましたが短期間の内に日本に関してこれほどまで低レベルな知識しか持っていない何人もの知識人に出会ったことが驚きでした。ただその内に面白いことに気が付きました。日本を侍の国と思っているような物理科のクラスメートが「ゼロ戦はすごい戦闘機だった」とか「Canonのカメラは素晴らしい」とか言います。又、仲の良かった学友のボッブはアンプを製作して売っているほどのオーディオ狂でしたがSonyのアンプをテストしてあまりに性能が良くて吃驚したと言っていました。
すなわち彼らの頭の中には古い日本と技術的に優れた近代日本が同居していて一つに統合されていないのです。

こういうことがあって私はある留学生の集まりで司会者に「アメリカに来てから何か気が付いたことは?」と聞かれ「日本のことをよく理解していないアメリカ人が多いのにびっくりしました。」と答えたのです。するとインドから来た留学生が立ち上がり「そうかもしれないがそれでは君たち日本人はインドのことをどの位しっているのかね?」と言ったのです。そうです当時私がインドについて知っていたのはガンジー、ネール、それにタージマハールくらいのものでしたのでぐうの音も出ませんでした。自分たちより進んでいる国には注目するが後進国に対してはあまり知ろうといていない自分に気が付いたのです。まさに無知なアメリカ人、無知な日本人なのでした。

2010年6月23日水曜日

24.ウッディーとMoonshine(密造酒)

下宿同居人大男のウッディーはもてあますエネルギーを時々発散する必要がありました。 発散の仕方は酒、女、そしてスポーツでした。休みの日には必ずと言ってよいほど体育館に行き一人でくたくたになるまでハンドボールのボールを壁にぶつけては拾い又ぶつけては拾いして汗を流して来るのです。 そして女です。 人種差別の激しかった社会であっても白人の女子学生には結構もてたらしいのです。白人女性は黒人男性に意外と興味を持っていて付き合ってくれると聞いていましたが黒人の肉体にあこがれるのか又は差別を受ける黒人に母性愛をくすぐられるのかは定かはではありません。ウッディーの場合は心理学を専攻していたので女性をくどく術に長けていたのかもしれません。

ある時女性をものにする方法を伝授するから着いて来いと言います。ウッディーに着いて行くと黒人が経営する場末の汚らしいドラッグストアに着きました。そこで何やら果実酒のようなものが入っているボトルを一本買ったのです。下宿に持ち帰ると何やらいろいろな得体の知れないものを混ぜてビンを振っています。 暫くすると「出来た」と言いました。Moonshine(密造酒)の完成です。この密造酒を女の子に酔いが回るまで自ら飲んでもらうようにもって行くのがウッディー独特のやり方なのでした。実演して見せるから女性になったつもりで俺と向かい合って椅子に座れと言うのでした。横には作ったばかりの密造酒がグラスに注がれて置かれています。

これから簡単なゲームをやろうと言いました。「僕が手を動かすので良く見ていてそれを同じ順序で真似るゲームだ」と言って「Mr.サイモンが手を叩く・・」とか歌いながら手を叩き、その手を膝に触り、肩に触り、そしてほっぺたに触ったりするのです。その間わずか数秒です。同じ順序で手を動かすのはほんの数個の動作なので簡単に出来そうに思えます。「もし君が僕のやったしぐさを間違えずに真似出来たらこのグラスを僕が飲み干すが、もし間違えたら君が飲むことになる。これがこのゲームのルールだよ。」と言うのです。このゲームはどちらかが酔っ払うまで続きます。初めは易しそうに思えましたがほんの5・6動作でも正確に手の動く順序を覚えていられるものではありません。正確に真似できるのはせいぜい5回に一度ぐらいです。と言うことはウッディーが一杯飲む間にこちらは4杯ほど飲まされることになる訳です。酔いが回れば回るほど記憶が怪しくなるのでますます勝負になりません。酒には弱くない私も間もなく意識が朦朧としてきました。ゲームをして遊ぼうと言って始めるので嫌と言える女性はいないのだそうです。やはり心理学の応用でしょうか? 結局ちょっと声を掛けて知り合った女性が知らぬ間に酔いつぶれウッディーの言うままになってしまうと言います。これは犯罪なのでしょうか? 合意の上と言われればそれまでなのかもしれません。実際にウッディーがガールフレンドをこの方法で酔わせているところを目撃したことはありません。

ある時ウッディーがちょっと頼みたいことがあると言って来ました。「俺と一緒にコンドミニアムで共同生活をしてくれないか」と言うのです。女性をもてなす場所がほしいと言うことでした。ミセス・ジェイコブスンの下宿には女性は連れ込めません。入れてもらえる下宿を見つけるだけでも苦労するウッディーにコンドミニアムなど貸してくれるオーナーなどいません。「君なら日本人だからたいていのところは入れる筈だ。俺が家賃の半分を持つのだからこんないい話はないと思うけどどうだ。」と言います。ちょっとウッディーの手練手管を真近で観察してみたいと言う興味に引かれましたが絶対にそんな話に乗るべきでないと言う友人の強い助言もあってその話は断ることにしました。それから間もなくしてウッディーはミセス・ジェイコブスンの下宿から姿を消したのです。それ以来ウッディーには一度も出会うことはありませんでした。

23.授業と学友達

物理科も数学科も1クラスの生徒数は大体20人から30人程でした。席は自由でしたが生徒は授業開始時間には全員着席していましたし、先生も時間には正確に現れ終了時間にはピタッと授業を終えて出て行きます。授業が始まるとまず出席をとります。生徒は皆「Yes」ではなく「Here!」と答えます。点呼で私の姓をまともに発音してくれた教授はほとんどいませんでした。「シミヤミ」と呼ばれることが多かったのです。初めは私のことを呼んでいるとは気が付きませんでしたがアルハベット順に呼んでくるので慣れるとすぐわかります。いずれのクラスにも女生徒も黒人生徒もいましたし、時々は中高年の生徒も見かけられました。歳を取ってから再び勉強したいという人が戻って来るのだということでした。

物理や数学の講義はよほど言葉に訛りのある先生でなければ言っていることはほぼ解ります。どの授業でも毎回宿題が出ます。宿題は次の授業までにレポート用紙に解答と自分の名前を書き半分に折りたたんで教授の部屋の前にある宿題受け箱に入れておくのです。宿題はすべて採点され教室で受ける筆記試験の点と統合され学期の成績がつけられます。したがっていくら期末試験の点が高くても宿題をサボっていれば良い成績は取れません。物理の場合は毎週のように実験のクラスがあり、その実験で集められたデータを使い課題に対するレポートを作成するのが宿題でした。実験グループは決まっていて同じグループのエキ・ゲーハルト(ドイツ人)、ボッブ・ハンフリーとジョーンの3人とはすぐ仲良くなりました。

22.日本人留学生


私と同じ時にワシントン大学に入った日本人留学生の数は十数名でしたが新学期が始まるとすぐに先輩の日本人留学生諸兄・姉達が新入生歓迎の集まりを開いてくれました。一通りの顔合わせ、自己紹介が終わると何台かの車に分乗しTavern(居酒屋)に繰り出しました。日本ではビールですら、飲んだら決して車の運転をしなかった私は車を運転して酒を飲みに出かけるなんていうことは考えられないことでした。しかしこちらの生活に慣れてくると大学のキャンパスの近辺には飲み屋はなく車で離れたところまで行くしかないことが納得出来るのでした。

先輩達はこの年(1962年)の春シアトルで開かれた世界博覧会でいろいろなアルバイトの口があり可なりお金をためられたと聞きました。私もあと半年でも前に来ていたら少しは学費が稼げたのにと羨ましく思ったものです。グレイハウンドバスでシアトルに入った時最初に目にしたあの美しいスペースニードル(宇宙人のような形をしたシアトルターワー)もこの万博を記念して建てられたそうです。歓迎会では多くの先輩や同輩達と親しくなれ大変有意義なものでした。アルバイト経験の豊かな先輩方にはその後いろいろとアルバイトの仕事を紹介していただくなど大変にお世話になることになりました。

2010年6月22日火曜日

21. 新学期始まる

いよいよ9月からの学期が始まりました。ワシントン大学はセミスター制(6ヶ月が一学期)ではなくコーター制(4ヶ月が一学期)でしたので9~11月が第一学期、12~2月が第二学期、3~5月が第三学期となっていました。6~8月は夏季学期で第三学期までに取りそこなった科目を取ることが出来るようになっています。取り損ねた学科でなくとも短期間で卒業したければ卒業に必要な科目をどんどん先取りすることが出来るのもこの夏季学期です。一年生はFreshman, 二年生はSophomore, 三年生はJuniorそして四年生はSeniorと呼ばれます。専門科目はどのコースにもPrerequisiteと呼ばれるその科目を履修するために前もって取っておかなければならない科目が決められています。その必須既得科目さえ終えていれば受講者数に余裕がある限り受講可能なのでした。大学を4年掛けないで卒業するためには夏季学期で必須科目を出来るだけ取る必要があります。留学生の場合は母国で既に取った科目をワシントン大学が審査してどのレベルから専攻科目を履修してよいかが決められます。母国での専攻学科とワシントン大学での専攻希望学科が同じならこの科目のすり合わせはそれほど難しくはありませんが異なった学部からの編入は結構面倒らしいのです。私の場合は日本での専攻は機械工学でありワシントン大学では理論物理を専攻したかったので数学科と物理科の2~3年への学部編入からスタートすることとなりました。結果的には物理は少し背伸びした形の編入となりついてゆくのがやっとと言う感じでしたが数学のほうは問題ありませんでした。

幸いなことに数学科と物理科のクラスは同じ建物の中で行われていましたし、授業があるのは月、水、金の週三日だけでしたので二股をかけるのにそんなに苦労はしませんでした。といっても毎回の宿題は量が多く、火曜と木曜は宿題に追われます。各科目の教科書の分厚さといったら日本の教科書では見たことのないほどのページ数です。教科書を買うため最初に大学のブックストアーに行った時驚かされたのは教科書の分厚さでした。高等数学の教科書は800頁もあり、これを読むだけでも大変そうなのに各章に付いている沢山の問題をやって行けるのかなと心細くなりました。同じようにかなりページ数の多い数学、物理、フランス語等の教材5-6冊を購入して下宿に戻った時には思わず量に圧倒されてため息が出てしまいました。勿論勉強のために留学をしたのですが日本にいるときアメリカ映画で見ていた楽しそうな華やかな学生生活も週末ぐらいには少しは経験できるかなと思っていたのですがとんでもない思い違いでした。何人かのクラスメートに週末はどのように過ごすのか訊ねたところ答えは皆「Study」でした。朝からパチンコ屋に行ったり、雀荘にこもって授業に出て来ない学生の多かった日本の大学生活とはぜんぜん違います。アメリカの大学は入るのは比較的簡単でも入ってから頑張らないとFlunk-out(成績不良での退学)させられてしまうので皆懸命に勉強するのでした。

2010年6月19日土曜日

20.健康診断とM検

当然のことながら書類で入学許可を貰っているとはいえ最終的に受け入れられるには大学側による健康診断をパスしなければなりません。オリエンテーションプログラムが進む中、大学から健康診断の通知が来ました。日本を出る前にも健康診断は受けていたので別段気にもしていませんでした。そんな時にある噂を耳にしました。 健康診断では男子生徒に対してはM検があるというのです。 M検を受けたことはありませんでしたが男の大事なところの検査であることぐらいは知っていました。軍隊では必ずあったというし、つい数年前までは日本の大学入試でも行われていたからです。よく成績の良かった先輩が東大に不合格になったのは試験の成績のためではなくM検で引っかかったのだとか言うまことしやかな噂を耳にしていました。勿論悪い遊びなど一度もしていなかったので問題ないと分かっていてもどんな検査なのか経験がないだけに落ち着きません。

知らない人間に調べられるなど想像するだけでも憂鬱になってきます。変な触られ方をして興奮してしまったらどうしようなどと下らないことが気になってくるのです。検査日までの数日は食事ものどに通りません。すこぶる純情だったのです。いよいよ当日がやって来ました。大学の病院ではなく大学構内ではありましたが個人住宅のような建物に連れて行かれました。中に入るように言われドアを開けます。そこには白衣を着てメガネをかけた老紳士が回転椅子に座っていました。近づいて行くと人の顔をチラッと見るなりパンツを下げるよう手で合図しました。目を瞑って言われるままにすると一瞬何か下部を触られたようでしたが「OK」と言ってお終りになったのです。あまりのあっけなさにこちらのほうが驚きました。あれで何が分かったのでしょうか? あれだけ悩んでいたのは何だったのでしょうか。でもそれで正式に入学が認められたのでした。

2010年6月18日金曜日

19.英語レベル判定試験

非英語圏からの留学生全員に対しては英語の実力判定テストが行われます。実力判定テストはヒヤリングが中心でした。知らない単語が幾つか出てきたので結果が出るまで不安でしたが結果が専攻科目の履修数に制限がつかない[Exempt]であってほっとしました。実力判定テストの判定結果は「Exempt」以下数段階のレベルに分かれていてレベル毎に専門科目の履修数が制限され最下位レベルはワシントン大学での学科履修が一教科も許されないでまず指定された学外の英語学校での英語履修が求められます。

私の留学当時のヒアリングレベルはFEN(日本での米軍極東放送)のニュースがほぼ聞き取れる程度でした。初めは全く理解できなかったFEN放送もニュースをテープレコーダーに録音し、そのテープを遅送りしながらノートにとり、FENのアナウンサーと同じ速さでしゃべれるまで何十回も声を出して読んだ時やっとFENのニュースが聞き取れるようになったのを今でも覚えています。日本人留学生の中では英語の先生をしていた人や英語を専攻していた人以外では「Exempt」をとった人はあまり多くありませんでした。

[Exempt]の判定を受けたおかげで専門科目を好きなだけ履修することが許されることになったのです。留学前の一年間日本で外人ハントの会を作ったりしいろいろな英語サークルに積極的に参加してみっちり英語漬けになっていたのが報われたようです。一年間のロスが取り戻せたような気がしました。

2010年6月17日木曜日

18.1957年製アメリカンフォード

自動車はホストファミリーのミセス・デービッドソンの友達から200ドルで購入しました。車は1957年製のアメリカンフォードで色は濃紺で全体に丸っこい形をしていました。運転席から前を見ると大きなずんぐりしたボネットが見えバスを運転しているような感じがします。日本で乗っていたダットサンが小さかったので特に大きく感じたのかもしれません。この車がものすごい代物だったのです。

ボネットのヒンジが片方壊れていてエンジンルームをチェックする時ボネットを開くのに苦労します。助手席の座席は磨り減ってぽっくり穴の開いたように凹んでいます。又、助手席側のドアは壊れていていつも紐でくくって走行中に開かないようにしている必要がありました。サイドブレーキは壊れていて使えません。おかげでサンフランシスコに似て坂道の多いシアトルのダウンタウンでは赤信号に出会うとアクセルとクラッチをたくみに操りバランスをとって停止状態を保つ必要がありました。おかげで数ヶ月も経つとクラッチワークが上手くなりました。

またマフラーも穴だらけで物凄い爆音をたて火花を散らせて走りました。こんなぼろ車を使えたのはワシントン州であったからでした。アメリカはまさに合衆国で州によって法律も異なりワシントン州は車検の制度がなかったのです。そんなわけで古い車も多く走っていました。アメリカ人の一人の友人は1936年製のアンティーク車に乗っていました。しかしながら私の1957年製フォードほどのぼろ車はあまりお目にかかったことがありませんでした。

2010年6月16日水曜日

17.耐乏生活始まる

多くの日本人留学生はお金持ちの子息の私費留学か又はスカラーシップ等何らかの留学資金を確保して来ていました。私の場合は親から何とか一学期分の学費は出してもらっていたのでしたがその先は何とかアルバイトで学費と生活費を捻出しなければなりません。と言っても米国移民局の許可なしには仕事をしてはならないとの条項があったので大っぴらには仕事に就けません。生活に慣れるまでは何とか学費以外の生活費を削らなければならないのでした。

先ずは食費です。スーパーマーケットに行くと前日の売れ残りパンを安く売っています。多少硬くはなっていても食べられます。大学への弁当はマーガリンバターにハムを一枚はさんだサンドイッチに棒切りにしたセロリとにんじんです。近所の韓国レストランで買ってきたお米を炊き、茄子とかビーマンに安いひき肉などを炒めて食べたりしました。炊飯器などはありませんでしたのでお米をといだ後、指で水加減を計り鍋で炊いたものです。安い食材での自炊を続けたおかげで好き嫌いの多かった私も何でも食べられるようになったのでした。お茶の葉も一週間も取り替えず色が出なくなるまで使いましたし、信じられないでしょうが髭剃りの安全かみそりの刃も取り替えずに一枚で3年間も使っていたのです。牛乳は飲んでいましたがコーヒーなどは元々飲まなくても平気な方だったので自分の下宿では飲んだ記憶がありません。こんな耐乏生活を続けたおかげで粗食に慣れてしまい高い金を払ってまで美味いものを食べに行きたいとは思わなくなったのです。しかしアメリカで暮らすにはどうしても車が必要でしたのでぼろ車を買うことにしました。1957年製のフォードでした。

16.下宿の同居人ポールとウディー.

私が入居した時には既に他の二人の下宿人が入っていました。一人は香港からの留学生Paul Luさん、もう一人は黒人のWoody Cornerでした。ポール(Paul)は誰から私のことを聞いたのか新入生のオリエンテーションプログラムの時から愛想良く話しかけてきてはいろいろと親切に教えてくれていた人物でした。同じ屋根の下に住むようになるとは思ってもいませんでした。彼は数学科の大学院生で将来の大学教授を目指して勉強している真面目な留学生でした。ポールは時々リーダー(leaderではなくreader)の仕事を回してくれたりしました。
リーダーというのは教授が生徒から集めた宿題を優秀な学生に採点を任せることでリーダーとなる学生にとってはなかなか良いアルバイトとなっています。一方ウディー(Woody)はアラビアンナイトのアラジンがランプをこすった時に現れる黒人の大男のような風体でしたが頭がよくGPAが3.9でした。GPAというのはGrade Point Averageの略で成績を数値化したものです。A(優)は4点、B(良)は3点、C(可)には2点が与えられ履修した全科目の平均値で表示されるもので例えばAを2つとBを2つ取った時点では4点+4点+3点+3点を4で割りGPAは3.5となるのです。もしオールAを取ればGPAは4となりますが大学入学から卒業まで全ての学科でAを取ることは至難の技であり、そんな生徒が現れると新聞に大きく報道されます。

日本のある大学では生徒の半分近くに優をつける教授が多いと聞きますが我がワシントン大学では生徒の成績は相対評価で付けられ25人前後のクラスでAを貰えるのは多くて3人ぐらいです。少なくとも私が受講した物理、数学、外国語のクラスではそうでした。さて話をウディーに戻しましょう。彼は心理学を専攻していました。GPA3.9と言うことは殆どの履修科目でAを取っていると言うことです。その彼が最初に涙ながらに話してくれた言葉は忘れられません。「俺はミセス・ジェイコブスンに恩を感じている。理由分かるか? 俺はこの部屋を借りるまでに54軒の下宿で入居を断られた。二グロと言うだけの理由だ。新聞で貸し部屋の広告を見て電話すると未だ空いていると言われる。出かけてゆくと顔を見たとたんにすまない今しがた他の人に決まってしまったと言うんだ。54軒もだよ。そんな偶然てあるとおもうか?表面では平等平等と言っていながらこれがアメリカの人種差別の実態なんだよ。」私は後にこれよりひどいトルコ人に対するドイツ人の人種差別を目にしたことはありましたが信じられない思いがしました。最もこの年ミシシッピー大学で黒人の学生が入学するのに反対する大規模な暴動が起こりアメリカ中が大騒ぎになる事件が起っています。50年近く後に黒人のオバマ大統領が誕生するなんてことは正に隔世の感があります。

2010年6月15日火曜日

15. 下宿探し

新学期が始まる一週間ほど前までには留学生達はホストファミリーの元を離れ大学キャンパス近辺の下宿に移り住むことになります。留学生支援オフィスではいろいろな下宿部屋を紹介してくれるので見に行き気に入ったものを選べばよいのです。初めて学生の下宿街を見に行った時最初に驚いたのは各家々の色彩の華やかさでした。白、緑、ピンク、赤、青等々でまるでヘンデルとグレーテルが出くわすお菓子の家みたいです。たいていの家は2階建てか3階建てです。大きい建物は男子学生のフラタニティハウスか女子学生のソロリティハウスです。2階建ての家も大概道路から2・3メートル土盛りされた上に建てられており道から玄関まで数段の階段を登って行くようなものがほとんどでした。

私が選んだ下宿は2階建てで屋根がグレーで側面が緑のしゃれた家で70歳過ぎのMrs.ジェイコブスンと言うお婆さんが管理していました。ミセス・ジェイコブスンは白髪でしわだらけの顔に銀縁のメガネを掛けていましたが背筋がピンとしており腰がダチョウのように大きく矍鑠としていました。部屋代は一ヶ月45ドルでまあ相場の値段でした。金持ちの留学生は100ドル200ドルを出してプール付きのコンドミニアムに入ったり、もっと高い大学のドミトリー(寮)などに入っていました。ミセス・ジェイコブスンの下宿は一階がMrs.ジェイコブスンの住まいで2階に貸し部屋が3室あり階段を登ったところにバスルームがあり2階の住人が共同で使用するようになっていました。

2010年6月14日月曜日

14.人食い人種と相部屋となる

オリエンテーションプログラムも終わりに近づくと留学生全員が大学の寮生活を一日体験させられます。どういうわけか私が泊まったのは女子寮でした。といっても残念ながら女子学生は休暇中だからか又は留学生のためにその日だけ追い出されたのか判りませんが体験プログラムを説明してくれた女子学生以外一人として残っていませんでした。全員で寮内を見学した後食堂に集まり食事をし、二人一組となりそれぞれ割り当てられた部屋に入って夜を迎えます。各部屋には二段式ベッドが用意されており相棒は上そして私は下段に休むことになりました。相棒はアフリカのケニアから来たという黒人留学生でした。住んでいた村から何十時間も歩いて選考試験を受けに行ったのだと言います。2000人から一人選ばれたとも言っていました。話を聞いている分にはいいのですが面と向かって顔を見るといけません。とても怖いのです。ターザン映画に出てくる人食人種そのもので夜中に食われてしまうのではないかと心配になってくるのです。

学術的には正確な分類ではありませんが黒人と言えば私はミクロネシア系、ポリネシア系そしてメラネシア系が思い浮かびます。ミクロネシア系は身体も小柄で日本人が日焼けして黒くなったような感じです。又ポリネシア系は小錦のように身体は大きいが愛嬌があって親しみが持てます。ところがメラネシア系は皮膚の色が青黒く顔もいかついのが多いのです。歯だけは真っ白で暗闇ではやたらと白い歯が目立ちます。件の相棒が上のベッドから身を乗り出して私を覗き込み「Good Night」と言った時背筋に冷たいものが走りました。暗闇に真っ白な歯だけが見えたのです。表情が黒くて読めないのがいけません。よりによってターザン映画の人食い人種と同室になるとは。今はおとなしいが夜中に気が変わって襲って来るのではないだろうか? かなり長い時間ね付かれませんでした。

2010年6月13日日曜日

13.オリエンテーション・プログラム

シアトルは北にMt.Baker, 南にMt.Rainier(タコマ富士とも呼ばれる)、東にカスケードマウンテンそして西にはオリンピック半島に聳える山々に囲まれた美しい町です。1960年代にはプロ野球の球場もなければイチローの所属するマリーナーズもありませんでした。 ビルゲーツも現れていなかったし、ましてやマイクロソフト社もまだ存在していませんでした。航空機を製造していたボーイング社とワシントン大学が目立った存在でした。ワシントン大学はヨーロッパ、中近東、ラテンアメリカ、アジア等から数多くの留学生を受け入れていました。その為でしょうか留学生の受け入れ態勢はなかなか確りしていたのです。

学期はコーター制で秋学期、冬学期、春学期と夏学期の3ヶ月毎に区切られており通常一学年の単位は秋学期から春学期までの3学期で組まれており夏学期は落とした単位の取り直しや早く卒業したい学生が単位を取得する為に出席します。大多数の留学生はきりのいい9月スタートの秋学期から就学することになります。8月中旬からボツボツ留学生達がシアトルに集まって来ます。留学生達は到着してから新学期が始まるまでの2・3週間大学側が用意したオリエンテーション・プログラムに組み込まれます。留学生はまずホストファミリーと呼ばれる留学生一人一人に割り当てられた個別の現地家庭に引き取られ生活環境に慣れさせられます。その間下宿探し、英語力レベル判定テスト、留学生同士の親睦のためのピクニック、身体検査等で新学期に備えます。  

12.Ugly American

私がシアトルのワシントン大学に留学をした頃「Ugly American」 と題する本がベストセラーになっていました。ホストファミリーのアンが読んでみなさいと貸してくれたので直ぐに読んでみました。海外、特に東南アジア方面で粗野で野暮なアメリカ人が相手方の歴史や文化を理解せず役に立たない援助等を行ってしまう様子を描いたノン・フィクションに近い物語であす。この本は後にマーロン・ブランド主演で映画化もされています。アメリカではケネディー大統領となりそんな反省も込めて極東の文化の理解に力を入れだしていました。ワシントン大学にも極東学部と言うのがあって中国語や日本語を学ぶ学生が数多く集まっていました。私もひょんなことから後にこの学部で日本語科の教員として雇われ一年間教壇に立つこととなったのです。又、ワシントン大学に「Center of Asian Arts」と言う研究機関が誕生し、日本からは後に人間国宝にもなられたような筝曲、尺八、狂言の一流の方々が招聘され文化交流にあたっていたのです。毎朝授業前の時間にはリスが走り回る木々の多い大学構内にいろいろな音楽が流されます。ある時ふと気が付くと聞こえてくるのは筝曲「六段の調べ」でした。こんな異国の地で「六段の調べ」が流れているなんて感激したものです。

後にお話しますが私はこの極東文化に力を入れる機運にいろいろな面で助けられたような気がします。その一つは奨学金がとりやすかったこと、そして物理専攻の学生のまま日本語教師としてとして大学に採用されて貰った給料のおかげで生活が楽になったことです。又、日本語を学ぶ多くのアメリカ人学生と仲良くなり楽しい彼らの飲み会にしばしば招待され楽しい学生生活が送れるようになったことです。

2010年6月10日木曜日

11.ホストファミリーデイビッドソン家

留学生活最初の10日間ほど世話になることになったデイビッドソン夫妻の家は現在マイクロソフトのビル・ゲーツ氏の豪邸が建っている場所からほど遠くないワシントン湖の畔にありました。平屋でしたが家の半分ほどは盛り上がった土地に沿って高くなっていて中二階のようになっていました。家に到着するとその中二階にある一室に案内され「ここがあなたの部屋よ」と言われました。部屋は小奇麗に整頓されていて洋服ダンスの引き出しはすべて空になっていました。明るい部屋で何か一番よい部屋を空けておいてくれたようで感激です。デイビッドソン夫妻には子供がいませんでしたが、もしかすると子供のために作ってあった部屋なのかもしれません。次にバスルームに案内されました。新しい洗面道具一式が私のために用意されていました。今では日本でも一般的になっているバスルームとトイレットが一緒になっています。当時日本では未だ一般家庭では水洗トイレなど普及していなかった時代ですから便所は不浄なところという感じがあり、それが体を洗うきれいな浴室と一緒になっているのは違和感があり慣れるまで落ち着きませんでした。

一通り家の中の案内が終わると庭の案内です。よく手入れの行き届いた芝生と草花。芝生のマウンドの向こうにワシントン湖が見えます。庭の真ん中に背の高い西洋杉が二本立っていて見上げると上の方が風を受けて緩やかに揺れています。木の下には木製のデッキチェアーが二つ置いてあります。それぞれのチェアーの右ひじの部分には飲み物を立てる穴が刻まれています。アン(デイビッド夫人は自分のことをそう呼んでほしいと言いました)が用意してくれたジントニックのグラスをそこに挿してチェアーに座りアンと暫く歓談です。ジントニックを進められるままに2~3杯飲むうちにほろ酔い気分になり頬に当たるそよ風も心地よく感じられます。ワシントン湖を眺めながら夢心地になり「ああ、これがアメリカなんだ」と感じたものです。

夕方ご主人のハリー・デイビッドソンが仕事から戻ってきました。ご夫妻ともファーストネームで呼ぶように言われました.年上の人を敬称もつけないで呼ぶのはその習慣のない日本人にとってはなかなか抵抗がありましたが郷に入ったら郷に従えで初日からアン、ハリーと呼ぶよう努めたのでした。ハリーは何時もにこにこしてアンを見守っている優しい男性でした。彼はボーイング社に勤めていました。シアトルのボーイング社は巨大な航空機製造会社ですから何らかの形でボーイング社とつながりのある方が非常に多いのです。

夜になるといよいよ食卓の準備です。アンが「これとこれをテーブルに並べて」とドイリー、ホーク、ナイフ等々を私に渡しました。最初から家族の一員のように扱ってくれたのです。アンが腕を振るって用意してくれた夕食はとても美味しかったのですが出てきたデザートのアップルパイの大きさにはびっくりです。日本なら3~4人分はあります。そしてアイスクリーム。皿の上にボンと山盛りではありませんか。せっかく用意してくれたものをよう残せずに時間をかけて全部平らげた頃にはお腹がはちきれそうになっていました。こんな風にアメリカでの第一夜は過ぎていったのです。

2010年6月9日水曜日

10. いよいよシアトルへ

バンクーバー停泊中の日令丸は積荷の関係で数日は出航できないことが分かりました。シアトルまでは<グレイハウンド>バスを使えば数時間で行き着ける距離です。はやる気持ちで荷物は船がシアトルに着いた時点で港まで取りに行くことにし陸路シアトルに向かうことにしました。シアトルまで日令丸で行くことになったR嬢や親しくなった船員たちに別れを告げシアトル行きのバスに乗り込みました。 <グレイハウンド>バスは冬季雪の上でもチェインを着けずに走るような重量のあるバスでそのエンジン音はかなりけたたましいものです。かなり英語のヒヤリングには自信を持っていたのですが早口でしゃべる運転手の声はエンジン音と走行音にかき消され何を喋っているのか理解出来ません。バンクーバーを発ってしばらくするとカナダと米国の国境となります。そこでバスの運転手が外国人乗客に対して何か注意事項を述べたのですが聞き取れません。ままよ、なるようになれとばかり無視することにしました。実はこれが後になっていろいろな法的手続きをしなければならなくなるとは思っても見なかったのでした。

数時間後バスはシアトルのダウンタウンにあるバスターミナルに無事到着しました。さあ、これから一仕事、ワシントン大学の留学生担当事務所に電話をしなければなりません。バスターミナルの公衆電話から外国での初めての電話です。緊張の瞬間でしたが以外にも受話器の向こうから聞こえてきたのはやさしい女性の声でした。流石に留学生担当だけあってゆっくり丁寧に話してくれたのでよく理解出来ました。名前を告げるとすぐ書類を調べたらしく「あなたのホストファミリーのミセス・デイビッドソンが迎えに行くから動かないでそこで待っていなさい」言います。

小1時間も待ったでしょうか、すらっとした黄色いワンピースを着た年のころ35・6才の金髪女性が声をかけてきました。でした。
彼女の乗ってきたのはハリウッド映画に出てくるような黄色のコンヴァーティブル車(フードが開くオープンカー)でした。私を助手席に座らせると勢いよく走り出した車はダウンタンを過ぎ間もなくフリーウエイに入りました。未だ日本には100キロ以上のスピードで走る事の出来る高速道路などがなかった時代でしたのでフリーウエーですれ違う車の耳を劈く様なヒューン、ヒューンという音には圧倒されっぱなしでした。快晴だったせいかミセス・デイビッドソンの金色のネッカチーフが風になびいて眩しかったので「シアトルは何時もこんな天気なのですか?」と聞くと「こんな天気はめったにないわ。きっとセイジン、あなたを歓迎してのことだわ」と言われました。デイビッドソン宅はワシントン湖の対岸ベルビューにありましたがフローティングブリッジ(浮き橋)を渡って30分ほどで到着です。

2010年6月8日火曜日

9.素晴らしきかな新世界!とカルチャーショック

横浜を出て8日目の早朝ざわめく物音にベッドから飛び起きました。デッキに駆け上がります。未だ薄暗い中地平線上にうっすらと黒い影が見えました。「陸地だ!」と誰かが叫んでいます。じっと目を凝らして地平線を見続けていました。その内、東の空に浮かぶ雲が少しずつピンク色に染まり始めます。陸地がはっきりした姿を現すのにはそんなに時間がかかりませんでした。気がつくと周りには数多くの小船が朝焼けで眩しいほどの海面に揺れています。目に入る光景がすべてピンク色に染まり眩しかった。素晴らしい朝焼けのバンクーバー湾でした。「ついに見た素晴らしきかな新世界!」と日本の両親に電報を打ちました。思い出深い外地への第一歩でした。

港には日令丸の親会社駐在員が出迎えにでていました。幹部船員と我々二人の船客はダウンタウンの中華街に夕食の招待を受けました。しこたま紹興酒をご馳走になっていい気分になったところで名所に案内すると言われました。暗闇の中我々を乗せた車は港を見下ろす小高い丘の上に出ました。周りを見てごらんと言われ暗闇に目を向けると数え切れないほどの車が駐車しています。見る限りどの車内でも人目をはばからず男女抱き合っている姿がシルエットとして映し出されています。いろいろな形での愛の営みが繰り広げられているようです。ほとんど人前でのキスシーンなどには出くわした事のなかった者にとっては強烈なカルチャーショックの始まりでした。

同じ夜、もう一つのショックを受けることになりました。案内役の駐在員兼運転手の運転振りです。かなり酔っ払っていたらしいのですが千鳥足もいいところで身体が腑抜けになり真っ直ぐに歩けないばかりか運転席に座ってもエンジンキーがどうしてもキー穴に入られない状態です。人の助けを借りてやっとエンジンをスタートさせますが酩酊状態でした。蛇行運転で乗せられている者は生きた心地がしません。人生の先輩である上級船員たちも停泊中の船まで送ってもらうので何も言わず黙って同乗したままです。しばらくして環状フリーウエーに入り込みました。そこでとんでもないことに気が付きました。真正面から皓々とヘッドライトをこちらに向けて何台もの車が突進してくるではありませんか。どんなによく見ても正面から来る車は我々の車の走っているのと同じレーン上を走って来ているのです。我々の車はハイウエーを逆走していたのでした。何とか港の日令丸に戻ったときは皆ぐったりしていました。

2010年6月7日月曜日

8. 太平洋ど真ん中

日令丸は横浜から米国西海岸のシアトルに向かうのですが途中カナダのバンクーバーに寄航します。 横浜からバンクーバーまでは8日間の船旅です。長いようでもありますが楽しかったせいか思ったより短く感じられました。 懸念していた船酔いにかからなかったからでしょう。中学の時、伊豆大島に行き帰路大シケで胃が空になるほど吐き続けたことがあります。また、波静かな瀬戸内海の小豆島に向かう船でさえも船酔いに悩まされていました。 バンクーバーまでの航海は比較的穏やかでしたがベッドに横になるとグググと海底に引き込まれてゆくような揺れは毎日ありました。 

航海の半ばごろ遭遇した大シケはひどいものでした。 食卓の食器類はボクシングリングのロープの様に食卓の周りに張られていたロープにひっかかり転げまわります。 風呂場に行けば浴槽が遊園地のビックリハウスの床や壁のように大きく傾きお湯はほとんど流れ出ていて風呂の体をなしません。 そんな大しけの中、私はマストの中ごろまで登り持っていった8ミリ映写機で大シケを撮影しました。その時はピッチング(船のたて揺れ)がものすごくジェットコースターに乗ったように急上昇、急降下を繰り返していました。少しは気持ち悪くなるのでしたが吐くところまではいきません。 一方もう一人の船客R嬢は船酔いで完全にグロッキーになり船室に籠ったまま出て来ません。東京の自宅に「太平洋ど真ん中、看護婦酔った俺元気!」という電報を打ったのはその時です。

実に不思議です。あんなに船揺れに弱かったこの私が何故平気だったのか。一つだけ思い当たることがあります。 船でアメリカへ渡らなければならないと決まった時、船酔い対策として自分で考えた方法でした。 後楽園遊園地には大きな円形壁に背をあてて立つと円形壁の回転が始まりそれと同時に床板が下がってゆくのに遠心力のおかげで体は壁に押し当てられたまま宙に浮く装置がありました。 渡航前この遠心力浮遊機に何回も乗って回転に体を慣らしていたのでした。 それが効いたとしか思えませんがとにかくそれ以来私は何度船に乗っても船酔いにかからなくなったのです。 

7. 航海中の日々

波の穏やかな日はデッキで昼寝をしたり、ゴルフボールを打ったりして時間をつぶしました。私の船室と同じ階には通信室がありました。 通信長の江本さんは外部との通信をモールス信号でツートン、ツートンと叩いています。 紙切れに電文を書いて持って行くと快く電報を打ってくれました。 四六時中通信をしている訳ではないので時間を見計らっては江本さんを訪ねるのが我々の日課のようになっていました。話のうまい江本さんの諸外国での経験談には夢をかりたてられたものです。通信長はギターが上手でいろいろなジャンルの曲を奏でては我々を楽しませてくれました。部屋にはいろいろな音楽テープが置いてありました。 最初の日に耳にしたあの琴の音もそのうちの一つだったようです。 

デッキに出て海を眺めていると目の前をビュンビュン横切って飛んでゆく魚があります。トビウオでした。優に50・60メートルは空中を飛んで行きます。 何十匹という数のトビウオが早さを競うように船首に向かって飛んで行くのは見ごたえがありました。食事は船長や上級船員と一緒であったせいか結構豪華でした。ビフテキや豚カツ、天ぷら等々で毎日違う料理が出て来てグルメではない私には十分満足のいくものでした。

2010年6月2日水曜日

6. 1962年9月5日ついに横浜港から船出

日産汽船の貨物船「日令丸」は当初の予定を3日遅らせて9月5日ようやく横浜第三桟橋を後にしました。12人まで船客を取ることの出来る貨客船だったのですが船客はたったの2人、私とジョンズ・ホプキンス病院に研修に出かける看護婦のR嬢だけでした。船が桟橋を離れだんだんと見送りの人々の影が小さくなり見えなくなった時、時計の針は午前7時30分を指していました。何とも言えぬ寂しさがこみ上げて来ます。 我々2人の船客の心持を察してか穏やかな風格のパーサー(事務長)が寄ってきてやさしくいろいろな話を聞かせてくれること約1時間、船もようやく横浜から遠のいた模様です。まだ対岸の見える2階デッキからひとまず船室に戻りました。なんとなく浮ついた心境です。別れ際にガールフレンドから手渡された手紙を取り出し読み進んで行くうちに胸がジーンとしてきて目頭までが熱くなってきました。畜生、バッキャロウ、誰かに怒鳴りつけたいようなおかしな感じです。

簡単に朝食をすませ3階デッキに出てデッキチェアーに横になりました。かかりつけの眼医者が言っていた通り洋上の太陽の反射はすさまじいものです。サングラスを持ってきてよかったと思いました。広大なる海を眺めていると大変なことをやらかしてしまった、シマッタと言う気持ちが断続的に襲ってくるのです。もう永久に愛すべき人々に会えないのではと言う錯覚に陥ります。渡米したい一心でことをここまで進めてきたのにアメリカには知人は一人もいないのです。先は全く読めていません。しょうがない、眠るしかないとデッキチェアーに横になったまま覚悟を決めて目を瞑りました。どのぐらいうとうととしていたでしょうか、突然目の前が真っ赤になって体ごと溶鉱炉に投げ込まれるような気がして目が覚めました。目の前に無限に拡がる海、海。薄情な海は何一つ慰めの言葉を投げかけてくれません。ただ目の前に拡がっているだけです。焼け付くような太陽に照らされた海面がギラギラと輝いて孤独感を煽り立てます。太陽の熱で体中が燃えてくるようです。

豪勢な昼食の後再び3階デッキに出てデッキチェアーに横になりました。満腹のせいか睡魔に襲われ眠りに落ちました。時間がどれぐらい経った頃だったろう突然、階段を駆け下りてくる音で目を開けると「鯨だ、鯨だ」と言う船員の声が聞こえます。慌てて「何処ですか?」と探してみたがもう見当たりません。残念しごく。その後船内の探索に出かけました。「日令丸」は7千トン弱(正確には6,648トン)でそれほど大きい船ではありませんがやはり外国に行くだけあってそれなりの装備が施されていました。4階には幹部船員である船長、機関長、通信長、事務長の船室と並んで客室があります。最上甲板(デッキ)には輪投げセットやゴルフセット(プラスティックのゴルフボールがひもでつながれている)等があり適当な運動はここで出来ます。下の階に行くとかなり広い浴場があります。一般船員の船室も下の階にありました。あとは貨客船なので貨物用のコンパートメントが船のだいぶぶんをしめています。

午前中、持ってきたポータブルテープレコーダーで筝曲を聴きました。午後の昼寝中何処からともなく「さくら、さくら」の音色が聞こえてきました。まさかと思ったがやはり筝曲の「さくら」の曲のようにしか聞こえません。音源を求めて船内をうろうろしてみたのですが結局わからずじまいでした。耳のせいかもしれません。夜は事務長(パーサー)、R嬢と3人してサロンにて巨人・阪神戦を聞きながら話し合いました。話しているうちにパーサーが大学の先輩であることが分かりなんとなく心強くなりました。この夜巨人の王が小山投手から3連続ホームランを放ちました。