2010年10月7日木曜日

66.黒人街のダンスホールに潜入する

留学前に映画ウエストサイド・ストーリーを見てアメリカに渡ったら是が非でも黒人街で本場のダンスを見てみたいと思っていました。しかし、シアトルの黒人街にはほとんど白人の姿は見当たりません。そんなところへは恐ろしくて一人でなど行ける筈もありません。

又、ダンスホールへ行くのですから一緒に行ってくれる女性の協力も必要です。そんな思いを抱いたまま2年が過ぎようとしていたある日のこと日本人留学生の集まりでのことです。 先輩で姉御肌のYさんが「私も行ってみたいと思ってたのよ。一緒に行ってみようか?」と言ったのです。この機を逸したら黒人街のダンスホールへの潜入は出来そうにありません。早速Yさんに同行してもらうことにしました。幸いなことにYさんの車も私の車も黒人街に行くにはもってこいのぼろ車でした。結局私のぼろ車で出かける事になりました。

薄汚い赤茶色の家々が立ち並ぶ黒人街にさしかかると無事に戻って来れるのかと言う不安に襲われます。ダンスホールの傍に車を停めた時にはやはり此処で引き返そうかとしばし車中から周りの様子を覗っていました。数分たってやっとのこと意を決して薄汚い入り口のドアを開けて中に入ったのです。中は薄明かりで目が慣れるまであまりはっきり見えません。しかしそこで見た光景は私の想像していたものとはまったく違うものでした。

がんがんと鳴り響く音楽の中で黒人達がダイナミックな踊りを披露しているのを想像していたのです。ところがダンスホールの中に入ってみると静かなスローテンポの音楽に合わせて全員が夕闇に風になびく稲穂のように揺れ動いていたのです。それがダンサー個々の動きではなく全体が一つの生き物のようにスローテンポの音楽に実に良くハーモナイズされて動いていたので思わず息を飲みました。

いつでも逃げ出せるようにと入り口近くの椅子に座ったYさんと私は暫く素晴らしい黒人ダンスに見とれていました。何曲かが終わった時でした。ダンスをしない我々に気づいた一人の黒人男性が近づいてきたのです。間違いなくYさんにダンス相手のもうしこみです。私のほうがどきどきしてしまいました。もしYさん断ったらどうなるだろうかと心配していたのです。ところが流石にYさんです。「With pleasure」と言ってフロアーに向かったのです。それから気のせいか雰囲気ががらりと変わったのです。暫くして我々が帰ることになった時には何人もの黒人達がレコードを差し出し土産に持って帰れ言うのです。案ずるより生むが易しとは正にこのことだったようです。貴重な青春の思い出の一つとなりました。

65.日本向け広告映画のナレーション

Dr.Niwaの推薦を受けて日本向け広告映画のシナリオの翻訳とナレーションを担当することになりました。依頼してきたのは大手の合板(plywood)製造会社でした。工事現場でコンクリートを流し込む時に周りを囲う板に合板(ベニヤ板)が如何に優れているかを解説する20分程度の日本向けのコマーシャル映画です。ギャラは200ドルでしたが当時としては大金です。日本で会社勤めをしている大学同期友人達の半年分の給料に匹敵する額だったのです。しかも私が費やした時間は3日程でした。シナリオが平易な文で日本語に訳し易かったのです。更に宮沢賢治の詩の朗読でマイクに向かっての発声の仕方が分かっていたことも大いに役立ったのでした。

実際の吹き込みは本格的なプロが使うスタジオで行われました。スクリーンに映し出される画面に合わせてナレーションを入れて行きます。これが自分で言うのも変ですが声の乗りも良く画面と最初から最後までぴたりと合って最高の出来となりました。ところがそれから一週間ほどして同じ会社からもう一本やってほしいと言ってきたのです。前回あれだけ上手く行ったのだから今度は経費節約の為スタジオではなくモテルの一室で画面なしでテープレコーダーにナレーションだけを吹き込んでほしいと言うのです。映画の映写時間だけ教えられその時間に合わせてナレーションを録音してくれと言うむちゃくちゃな要求でした。

兎に角ギャラがいいのと相手のしつこさに負けてソニーのテープレコーダーを前にモテルの一室で頑張りましたが全く不満の残る出来でした。ナレーションが画面とずれてしまって合わないのです。その責任は私にあるのではなく経費をつまらないところでケチった会社の担当者にあるのだと自分に言い聞かせましたが日本での反応はどうだったのか考えると暫く落ち着きませんでした。

2010年10月3日日曜日

64.仙台から届いたファンレター

専門の物理や数学の授業にかち合わないように担当の授業を決めてもらえた日本語科のTA(ティーチングアシスタント)の仕事は楽しくて時間の経つのも忘れるます。2学期も過ぎた頃のことでした。一通の手紙が日本の仙台から届きました。宛名にはワシントン大学Professor シモヤマと書いてありました。若い女性からの手紙でした。「仙台の河北新報で先生のワシントン大学でのご活躍を知りました」で始まる文でどうやってアメリカに渡りそのような職を得たのか教えてほしいと言うものでした。彼女もアメリカ留学の夢を持っているのが良く分かる内容でした。

そう言えばそれより一ヶ月ほど前に日本の新聞社の記者が私の授業を見学しに教室に入ってきて写真を撮っていったのを思い出しました。それが河北新報に載ったらしいのです。私が驚いたのはワシントン大学Professor シモヤマで手紙が来たということです。アメリカの大学ではファカルティーの中では教授(Professor),準教授、助教授、講師、等々があって最後にTAですから名前にProfessorをつけられて届いた手紙には当惑しました。 同僚の教職員に対してばつが悪い思いです。でも良く考えてみれば片田舎の女の子がアメリカの大学で教鞭をとっている人間に手紙を出すとすれば敬称としてプロフェッサーしか思い当たらないのは分かるような気がします。

手紙をくれた仙台の彼女には丁重な手紙を書きいろいろと留学の参考になることを知らせましたが、それっきり彼女からは何の連絡もありませんでした。

私がこの様にマスコミ(?)に取り上げられたことは他にもありました。大学の直ぐ脇からワシントン湖の対岸に住む私のホストファミリーの家の直ぐ傍まで新しいフローティングブリッジ(浮橋)が建設された時「新しい橋の恩恵を受け喜ぶ留学生」とのタイトルで私のことが写真入で地方紙の社会面に大きく出たことや、ワシントン大学を留学先に選んだ理由についてラジオ局からインタビューを受けたこともありました。日本にいてはなかなか体験できないことが起こるものです。

63.教材作りと宮沢賢治の詩

日本語科主任教授のDr.Niwaに信頼された為かどうかは分かりませんが私は教材作成にも手を貸すことになりました。まず学期の途中でそれ迄に生徒が学習した基本構文のみを使って正しい自然な日本語の文章を作ってほしいと言うものでした。私は中学・高校時代には大の作文嫌いで、夏休みの宿題に作文が出るとそれだけで夏休み中悩み、国語の先生を恨んだものです。どうやっても2・3行以上筆が進まないのです。そんな私がこともあろうに教材を作ることになったのですから正に青天の霹靂です。しかし人間とは恐ろしいもので信頼され、期待されていると思うと不思議な能力が出てくるのか、又は、使える基本構文が限られていた為か1・2時間で自分でも感心してしまうような無理の無い自然体の日本語文章ができあがったのです。Dr.Niwaの評価も高くそのまま教材として採用されたのです。

暫くすると今度は語学ラボで生徒達が聴く日本語の音声テープの作成に携わることになりました。宮沢賢治の長い詩「雨にも負けず、風にも負けず・・」の朗読を任されたのです。
私の朗読が録音され、それを語学ラボで日本語を学ぶ生徒達が何度も何度も繰り返して聴くことになるのですから大任です。私は自分の声がいいと思ったことなど一度もありませんでしたので何故こんな大役を任されたのか分かりませんでしたがやるしかありませんでした。

視聴覚教室のスタジオには本格的な録音室があります。録音室のマイクの前に座ると横に副主任のM子先生が座って録音機の設定をし、私にスタートの合図を送ります。緊張が高まって心臓がどきどきします。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず・・」には難しい言葉は含まれていませんが結構長いのです。初めから終わりまでペースを乱さずに朗々と朗読するのが実に難しいのです。途中で息切れがしてペースが乱れたり、ちょっとした句読点で言葉が詰まったり、似た単語を読み間違えたりしてなかなかOKが出ません。結局6回ものNGを出してしまったのです。録音が無事終了した頃にはもうふらふらでしたがこの貴重な経験が後にアルバイトで広告映画のナレーションを担当した時に非常に役立ったのです。