2010年7月29日木曜日

51.スタッグ・パーティーとブルーフィルム

スタッグ・パーティー(バッチェラー パーティーとも言う)とはもうすぐ花婿になる人とその男友達だけが集まり独身生活を惜しんで羽目をはずすパーティーです。私にプライス家のハウスボーイを譲ってくれたM先輩も結婚を控えてスタッグ・パーティーを開きました。勿論、最初は飲み会から始まりますが宴もたけなわとなるとブルーフィルムの上映が始まります。

ブルーフィルムとはポルノ映画であり今で言えばAVビデオにあたります。当時はビデオなど無く映写機で写す8ミリ映画をブルーフィルムと呼んでいました。私はブルーフィルムなる言葉は知っていましたが一度も見たことはありませんでした。部屋の壁に写された映像は白黒で決して鮮明なものではありませんでしたが生まれて初めて見るブルーフィルムの画像は今でも鮮明に覚えています。何でも警察から回ってきたものだと言うことでした。警察が押収したポルノは凄いのが多いよとは弁護士をやっていた義兄がよく言っていましたがなるほどと思って感心したものです。

スタッグ・パーティーは結婚式でベストマン(新郎の世話人代表)をする人が手配することになっているそうですが後に親友のベストマンをやることになった私にはそんなブルーフィルムを手配することは出来ませんでした。

スタッグ・パーティーがあって暫くするとM先輩の結婚式に招かれました。教会での厳かな式が終わると新郎新婦は車に乗って会場を後にします。その車にはアメリカ映画でよく見るように幾つもの空き缶が紐で繋がれ車が動き出すと引っ張られていてがらんごろんと音を立てるのでした。これを見た時、ああ、アメリカだなと思ったものです。

2010年7月28日水曜日

50.プライス家とカルチャーショックの数々

プライス家には夫人の90過ぎの母君が同居していました。又、この母君の世話をする可なり歳のいった介護師の女性とノルウェイから来ていた賄い担当のクリスティーおばさんが一緒に住んでいました。クリスティーは太っていて動作が鈍く話し方も小声でもぞもぞ話すので言っていることが良く理解できませんでしたが人柄は良く、時々私にカレーを作ってくれました。一階の正面玄関を入るとアメリカ映画でよく見るような立派な階段が二階へと続いていました。その手すりにはレールがついていてレールのうえの椅子にプライス夫人の母君が座るとスルスルスルと電気仕掛けで二階まで登って行くのには驚きました。自動車のガレージもプライス夫人の帰ってくる自動車が見えないうちからシャッターがひとりでに開いていくのに驚いたものです。でもプライス家で受けた本当のショックはこんなものではありませんでした。

プライス家に入った日、私は食堂でミセス・プライスによって他の従業員達に紹介されました。その席上でのことでした。私の面前で夫人は食堂の数ある食器棚の一つ一つに鍵をかけていったのです。それぞれの棚には高価な食器類がおさめられていたのです。私の受けたショックは大変なものでした。その行為が私に対する親切心からであると言うことが解るには可なりの時間が必要でした。しばらくして、知り合いの老婦人に教会に連れていかれたときです。教会近くに車を止め車のドアを閉めた時です。同伴していたその老婦人が私に向かって「外から見えるところに手荷物を置いてはいけません。それはsinです。(crimeではありません)」と言って私を咎めたのです。要するに他人に盗みを唆すような環境を作ることは罪であると言うことなのです。完全に性悪説に基づく理論です。盗みを思い起こさせないようにするのが親切心なのです。プライス夫人のとった行為もやっと納得できました。後にフランスで止めておいた車から大事な荷物を盗まれた時、警察で見えるところに置いとけば盗まれるのがあたりまえだと言われ、どちらかと言えば性善説にたつ日本との違いを思い知らされたことがあります。

ついでに私がアメリカで受けた他のショックの話もいたしましょう。それは人の行為に直ぐ金を払おうとすることでした。最初の下宿に居た時でした。宿のオーナーのジェイコブスンおばあさんに壁の額縁を留めていた釘が取れたので新しい釘を打ってくれと頼まれました。釘と金槌を手渡されたので直ぐ新しい釘を壁に打ち付けました。1分も掛かっていません。するとジェイコブスンさんは私にさっと二ドルを手渡したのです。親切心でやった行為にお金を渡されたら侮辱された気持ちになります。勤労奉仕が美徳と教わって育った私は特にそう感じたのかもしれませんが、私は非常に情けない気分になったのです。只、半年ぐらいたった冬のある日、水道管が破裂して困っている家の前を通りかかり、車を止めて手持ちの材料で緊急処置をしてあげたとき差し出された5ドルは素直に受け取れる自分になっていたのでした。

2010年7月27日火曜日

49.リチャードソン邸を辞してプライス家に移る

秋学期が始まって間もない頃、やはりハウスボーイをしていた大先輩のMさんから「僕のやっているハウスボーイを引き継いでくれないか」と打診されました。Mさんは結婚することになったのでハウスボーイを続けるわけには行かなくなり誰か後釜を探していると言うのでした。良く話しを聞くと悪い話ではありません。給金は月30ドルでリチャードソン邸の50ドルより少ないのですが仕事の量が俄然少ないのです。一週間に一度一台の乗用車を洗うのと土曜日に玄関前の前庭の落ち葉掃除、そして夕食時の食卓のセティング(ドイリーをひき、ナイフ、フォーク、スプーンを並べるだけ)そして来客がある時だけ白い給仕服を着て蝶ネクタイをつけ給仕をするというものでした。

「Roll over!」と言うとくるっと短足胴長の体を横に一回転させる可愛いダックスフントが飼われていましたが、犬の世話はしなくて良いことになっていました。どう計算しても一週間に仕事に取られる時間は3時間ほどしかありません。こんなうまい話はありません。奨学金のおかげで学費は掛からないし、バイトのおかげでお金も少々貯められる状態になっていましたから私がほしかったのは自分の自由になる時間でした。リチャードソン邸では好きなビールも一ヶ月に350mlの缶ビール一個しか許されていませんでしたから大分ストレスも溜まっていました。

リチャードソン夫人に話すと「後釜が見つかるまで居てくれるならいいわ」と言ってくれました。運良く留学生支援事務所の世話でハウスボーイを希望していると言うタイからの留学生が直ぐに見つかりました。話はとんとん拍子に進み間もなくして私は思い出深いリチャードソン家からプライス家へと居を移したのです。

商業銀行の創始者だったご主人を無くなした未亡人のミセス・プライスが新しい家の主人でした。プライス夫人は背筋のぴんとした英国の貴族を思わせるような気品のある女性でした。家は二階建てで横長であり中央の玄関は前庭を隔てて「Broadway」という公道に面していました。裏に回ると斜面で土地が低くなっており地下室が一階の様になっていました。私が与えられたのはこの地下室(裏に回れば一階)でしたが表の正規の玄関を使わずに済んだので自由に出入り出来、ハウスボーイをしているような感じはしませんでした。門限も無かったので友達と夜遅くまで飲みに出ることも自由になりました。

2010年7月23日金曜日

48.愛犬トップスとのお別れ

歳をとっていたトップスは段々家の中で粗相をするようになってきました。ところ構わず臭い大便をするのです。しかも一回にする量が多く数箇所に大きいのをたらします。その処理はすべてハウスボーイの私がやることになります。まず盛り上がった糞の塊を取り払い、絨毯についた跡を洗剤で洗い落として臭いけしをかけるのです。問題はそれが私の仕事の時間外に起こることが多いと言うことです。試験前の夜にでも当たったら落ち着いて勉強も出来ません。

トップスは糞だけでなく良く臭い「おなら」もするようになっていました。ある日トップスがおならをした時、私はたまたま近くにいたリチャードソン夫人に「Tops farted!」と告げました。夫人は「今何と言った?」と言うので「Farted」と言うと「その言葉は何処で覚えたの?」と訊ねられました。正直に日本にいたとき辞書で覚えたのだと言うと、それならしょうがないわねと言う顔をして夫人が説明してくれました。「fart」は卑しい言葉で人前で使ってはいけない。言うなら「break wind」と言いなさいと。「break wind」がおならをするという表現なら「fart」は屁をひると言う言い方で一種のfour-letter wordであることを知ったのはトップスのおかげと思っています。

それから間もないある日のこと大学から戻ってくるとトップスの姿が見当たりません。何処へ行ったのかと思ってリチャードソン夫人に尋ねると「トップスはもういません。今日獣医さんのところで注射をうってもらって安楽死させました」と教えてくれました。私が粗相の始末をいやな顔をしてやっていたのでこうなってしまったのかと思うとたまらない気持ちになりました。

その次の日、大学から戻ってくるとリチャードソン夫人の足元をグレイ色の小さなプードルが走り回っていました。この犬の名前は覚えていないのです。なぜなら名前を覚える間もなく私自身がリチャードソン家から去ることになったからです。

47.時々私を困らせたリチャードソン夫人

ある土曜日のこと、いつもの様に私は一階のロビーから絨毯の掃除機がけを始めました。そこへリチャードソン夫人が上の階から降りてきました。時々私の掃除ぶりをチェックするのです。ところがこの時はチェックではありませんでした。夫人はロビーにあった数個のクラシックな椅子の一つを指差し「ちょっとこの椅子の足を見てごらんなさい。接いだ後があるでしょ。」指差された椅子の足を見ると確かに継いだ痕が見えます。「私が思うにヤス(私の前任者)が私の留守中にこの部屋で柔道の練習をしていて誤ってこの椅子にぶつかり椅子の足が折れてしまい、慌てて強力接着剤でつなぎ合わせたのよ」と言って私に同意を求めたのです。確かにヤスさんは柔道黒帯でしたがそんなことするとは思えません。私が最後まで頷かなかったのでその時はそれで終わりましたが、下手すると私も何かあらぬことで疑われているかもしれないと思うと落ち着いていられませんでした。

又、ある日のことスーパーマーケットで買い物をして帰って来たリチャードソン夫人があわてて私を呼びました。何事かと思って飛んでゆくと「スパーマーケットで35セント余分に払ってきてしまったのに気がついた。私のキャデラックを使っていいから35セント取り返してきて」と言うのでした。キャデラックで行けばガソリン代だけでも35セント以上は掛かるはずです。私が夫人の金銭感覚が良く理解できずに躊躇していると「ついでにrisqué(リスケイ)thing を買ってきて」と言ったのです。私はrisquéという単語を知りませんでしたのでriskyと思ってどんな危険なものかと訝っていましたが夫人の説明を聞いているうちにrisqué thingとは「大人のおもちゃ」のことであるとわかりました。パーティで贈り物に使うのだそうです。いずれにせよあまり引き受けたくない仕事でした。

時には親切心から私を困らせることもありました。何の機会だったか忘れましたが夫人が大きな白身魚を買ってきて夕食時に私のために炒めて出してくれたのです。日本人は肉より魚が好きであると決めてかかっていたのです。私は魚が好きではありませんでした。しかも味が無い大柄の白身魚など食べられたものではありません。しかし、親切心から夫人がわざわざ作ってくれた料理を食べないわけには行きません。私にとっては苦痛の魚料理でした。

46.ジョン・F・ケネディー大統領暗殺される

その日私は大学の図書館で物理レポートの作成に取り組んでいました。正午一寸前だったと思います。突然、図書室中央の大きなドアが開きました。館長が姿を現し「今しがたケネディ大統領がダラスで銃弾に倒れ現在昏睡状態にあります」と告げたのです。館長の目は真っ赤で涙が溢れていました。当時ラジオでは頻繁にケネディーとジャックリーヌの物まねコミックが流されていてケネディ家族は皆に大変親しまれていました。キューバ危機を乗り越えた若き大統領に期待が集まっていた最中のこの事件がアメリカ国民だけでなく全世界に与えたショックは計り知れないものがあります。

ワシントン大学の午後の授業はすべて中止となり建物には半旗が掲げられました。私も直ちにリチャードソン邸に戻りテレビにかじりついて事件の成り行きを追いました。間もなくケネディ大統領の死亡が発表され、その夜遅くリー・ハーヴェイ・オズワルドがケネディ暗殺容疑で逮捕されました。ところがこのオズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いルビーに射殺されたのです。この時の模様はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万人のアメリカ人が生中継でこの瞬間を見ることになったのです。私もこの瞬間をテレビで見ていた一人です。

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーヌが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由でしたが、ケネディ大統領暗殺事件を検証するためジョンソン第36代アメリカ合衆国大統領により設置された調査委員会であるウォーレン委員会はおろかマスコミでさえその不可解さを取り上げることはありませんでした。しかも、この事件とも何の関係もない、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入り込めたのかという理由について、ウォーレン委員会はダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判してはいるものの、その理由については最終的に満足な説明は何一つ為されなかったのです。
また、事件後には、ルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を随時追いかけていたことが複数の人物から証言されましたが、そのルビーはこの事件について多くを語らないまま4年後に癌により獄中で死亡しました。日本であれば警察が移送中の重要容疑者が殺されたりすればマスコミが警察に対する非難を大々的に取り上げ大変な騒ぎとなったと思います。

副大統領であったジョンソンがケネディ大統領の後を継ぐ第36代アメリカ合衆国大統領に就任しましたがその就任式でジョンソンが「この難関を乗り越えるために私は国民皆さんの協力と神のご加護が必要である」と述べたのを記憶しています。とにかくなぞの多い事件でした。

2010年7月22日木曜日

45.ブロードムアープライベートゴルフ場

リチャードソン邸はブロードムアーゴルフ場の中にありました。このプライベートゴルフ場は歌手のアンディー・ウイリアムズや名喜劇俳優のボッブ・ホープなどもプレーしに来ていた名門コースです。リチャードソン邸の傍にあったスタートホールからはよくヒュルヒュルヒュルと唸りを立てて飛び出す打球が聞こえました。今では私もゴルフをやりますがプロのトーナメントを見に行って唸る打球を耳にすることはあっても仲間の打球が唸りをたてるのは聞いたことがありません。

ブロードムアーには結構上級ゴルファーが来ていたようです。このゴルフ場は木曜日が芝の休養日でクローズとなり従業員はプレーしてよいことになっていました。私も従業員でしたからプレーしてよかったのですが一年近くも勤めていてこの特権を一度も利用しませんでした。「ゴルフなど覚えて日本に帰ったらお金が掛かって大変よ」と言うガールフレンドの言葉を真に受けてゴルフをやらなかったのですが今考えると大変もったいないことをしたと思います。リチャードソン夫人は良く友達を招いてブリッジをしたり、ゴルフをしました。ゴルフをする時はキャディー役を仰せつかります。キャディーと言っても芝の目が読めるわけも無いし、ゴルフのルールも知らなかったので単にリチャードソン夫人とゲストのゴルフバッグを担いでお供するだけでした。今思うとカートがなく二人分を担いで回ったのですから大変な仕事でした。ワンラウンドお供すると6ドル貰えました。

このコースにはほかにも思い出があります。ある日の午後犬のトップスを散歩に連れ出しました。フェアウエーを横断しようとすると真新しいゴルフボールが落ちていました。周りを見回しても誰も見えません。犬の散歩中にはよくロストボールを拾っていましたのでこのボールも拾い上げてポケットに入れました。いつもと違うのはコース脇のブッシュの中ではなくフェアウエーのど真ん中であったことです。その時です。遥か遠くにゴルファーの姿が現れました。しまった、これはプレー中のボールだったのです。しかし完全に私の姿はゴルファーの視野に入っています。ボールを元の位置に戻しに戻ったら訴えられるかもしれません。ハウスボーイを解雇されるかもしれない。そう思うと怖くて戻れません。結局、ボールをポケットに入れたままコースを横断し林に身を隠したのです。豪快なショットを放ったゴルファーはフェアウエーの真ん中にある筈のボールが見つからなくて首をかしげたに違いありません。今でも思い出すたびに悪いことをしたなと思っています。

またある時トップスを連れてゴルフ場のコースを散歩して家に戻ってくるとポケットに入れていたはずの家のキーが無いのです。何処かで落として来たに違いありません。リチャードソン夫人に告げると大事なキーなので探して来るようにと言われました。かなり広範囲に歩いて来たので探すのは大変です。それに芝もかなり深くなっていました。途方にくれました。どこを歩いてきたか考えているとふとあることを思い出しました。途中で犬を引っ張っていたリーシュが外れてトップスが駆け出し慌ててトップスをタックルするため跳びかかった場所があったのです。あそこに違いありません。大体覚えていたその場所に戻り芝の中を見回すと金色に光るキーが見つかりました。ほっとしました。

44.家庭教師の仕事を譲り受ける

秋学期も始まって間もない頃、一年先輩の日本人留学生Hさんから家庭教師をやらないかと声をかけられました。話を聞いてみると在シアトル日本国総領事館参与C氏のご子息の日本へ帰ってからの大学受験の準備のための家庭教師とのことでした。H先輩が教えていたのですが帰国することになり引き継いでほしいと言うのでした。私は日本にいた時に大学受験生5人の家庭教師をしていた経験がありましたので喜んでお受けすることにしました。

ハウスボーイの仕事がない日曜日になるとC氏が自ら車を運転してリチャードソン邸まで私を迎えに来てくださったのには恐縮しました。ご子息に教えたのは数学と物理でした。謝礼を頂けたのは嬉しかったには違いありませんがそれより嬉しかったのは毎週暖かい日本の家庭的雰囲気を味わえたことでした。毎回、勉強が済んだ後に奥様が作られる手料理を御馳走になったのです。当時既にシアトルには日本料理店が4・5軒ありましたがご家族の皆さんと和気合い合いの雰囲気の中いただく純日本的家庭料理の味は外食では味わえないもので本当に美味しく私にとっては至福の一時でした。

C氏ご家族には良く日本映画を見に誘っていただきました。ダウンタウンにあったボザール(Beaux Arts)という日本映画専門の映画館でした。「青い山脈」、加山雄三の東宝「若大将シリーズ」、「勝新太郎の座頭市シリーズ」、長門勇の「三匹の侍」等々はハウスボーイで鬱積した疲労を癒すのに大いに役立ったものです。

C氏から息子さんが東工大と早稲田の理工学部に受かりましたとの電話をいただいたのは私が帰国して間もない頃でした。

2010年7月20日火曜日

43.ガードニング

リチャードソン夫人は子供がいなかったせいか草花が好きでした。ハウスボーイになった厳寒の2月に家の前庭の周りにパンジーやペチュニアの苗を植えるように言われました。霜の降りている土に小さなシャベルで穴を掘り、苗を植えてゆくのですが大邸宅でしたのでその面積たるや大変なものです。鼻水を流し流しの作業です。終わる頃には熱が出てきました。そんな時リチャードソン夫人は「これでも飲んでいれば治るわ」と言ってアスピリンを手渡すのが常でした。

裏庭の一部は薔薇園のようになっていていろいろな色の花をつける薔薇の木が植えられていました。この薔薇園の手入れが又大変なのです。適当な時期に肥料を薔薇の木一本一本にかけるのです。リチャードソン夫人が買ってくる肥料は魚の腐ったものから作られているらしく入れ物から出すと物凄い悪臭で卒倒しそうになるのです。それをゴム手袋をして薔薇の枝の芽が出そうな部分にぬりまくるよう言われました。いくらゴム手袋をしていても体の周りにしみついた匂いはなかなか取れないのです。食事も喉を通りません。

天気の良い日の芝刈りも大変な仕事です。何しろゴルフ場の中にある家なので自分の家の庭とゴルフ場のコースとの区別がつきません。どこまで芝生を刈ればよいのか実に悩んだものです。又、垣根の潅木のトリミングは素人には難しいものです。リチャードソン家の垣根の潅木は私の背丈より少し高いぐらいでしたのでトリミングなど難しくなかろうと始めました。半分ほど枝を切り落としたところで少しはなれたところから見てみると高さが揃っていません。いけないと思い一番低く刈り込んだところに合わせて出っ張っていると思われた部分を切り込みまた離れてみて見ると今度は切り込んだ部分が凹んでいて垣根の高さが一定していません。そこでまた今度は高い部分をトリミングします。また離れてみるとまだ高さが一定していません。こんなことを繰り返しているうちに気がつくとブッシュは丸裸になってしまっていました。さすがにリチャードソン夫人には切りすぎだとお小言をもらいましたが後の祭りでした。

42.夏学期

アメリカの大学生は大部分が学費を自分で工面します。親の脛をかじる風潮はあまりないようです。ですから夏学期は大学に行かずに何らかのアルバイトをして一年分の学費を稼ごうと言う学生が多いのです。私の在籍していた数学科や物理科の学生も多くは夏季学期のコースを取らずにアルバイトを求めて散っていきました。日本人の学生にとっての最高のアルバイトはなんと言っても時間給の高かったアラスカでの鮭の「いくら」造りの仕事でした。日本人留学生なら誰でも参加できると言うわけではなく採用試験の面接がありました。私も参加したくて面接に行きましたが不採用となりました。 私よりも屈強な友人が採用されたのです。

仕方なく私は学業に励むことにし夏季学期の数学を欲張って5コース履修したのでした。結果はオール「A」で2年間での学部卒業を確実なものにしました。5コースのうちの一つは最初「B」が付いてきたのですが、どう考えても「A」のはずでしたので返却された期末試験の答案(日本の大学とは違って試験の結果は採点後学生に返してくれます)をクラスメートのアメリカ人学生に見せて判断を仰ぎました。「間違いなくミスだよ」と言ってその学友が教員室まで同行してくれました。担当はスウェーデンから来ていた若い女性の助教授でした。私の差し出した答案を見て「すみません。私のミスです。」と言ってその場で大学に「A」への修正手続きを取ってくれたのです。もし日本の大学(少なくとも早稲田)のように採点後の答案を返してくれないのであればこのようなミスは表面化しません。私はアメリカのやり方の方が公明正大で良いなと思ったものです。

夏学期も終わりに近づいた頃ホストファミリーのアンから2・3日のピュージェットサウンド(シアトルの西側に位置する瀬戸内海のように静かで島の多い海域)クルーズに誘われました。アンの友人が所有しているクルーザーでの航海です。とても楽しそうでしたので何とかご招待にを受けたかったのですが何しろハウスボーイとして日曜以外は仕事があります。アンがリチャードソン夫人に掛け合ってくれることになりました。翌日アンから電話がありました。リチャードソン夫人の答えはやはり「No」でした。ハウスボーイに3日も暇を取られては困ると言うものでした。結局私も諦めざるを得ませんでした。その代わりアンは私がフリーな日曜日に彼女の友人に頼んで私をワシントン湖での水上スキーに誘ってくれたのでした。それは現在マイクロソフトのビル・ゲーツの豪邸近くの湖上でした。最初の2・3回はスキー板が水中にぐんぐん引っ張られていく感じで溺れそうになりましたが慣れてくると水の抵抗をうまくスキー板の裏側で捉えられるようになり湖上に体が浮上します。モーターボートに引っ張られて湖上を駆け巡るのは実に爽快な気分です。

2010年7月13日火曜日

41.奨学金に再挑戦

冬学期は数学で「A」が二つ、フランス語も「A」でしたが肝心の物理では「B」二つの成績で終わりました。成績が下がらなかったので留学生向け奨学金に再度挑戦することにしました。待つこと一週間今度は「I am glad to inform you・・・」で始まる嬉しい手紙が届きました。但し、最終決定には2人の担当教授からの推薦状が必要とありました。一つは良い成績を取っている数学の担任テーラー教授に書いてもらうことにしました。教授を訪れると快諾してくれました。問題はもう一つの推薦状です。フランス語は良い成績でも自分の専門ではないので使うわけには行きません。やはり物理科の教授に頼むしかなさそうです。考えた挙句、「B」を取った熱力学のダッシュ教授を訪れました。「A」を取れなかったので遠慮がちに事情を話すと「私の難しい科目で留学生の君が“B”を取ったのは賞賛に値するよ」といって素晴らしい推薦状を書いてくれたのです。これで二年間の学費が無料になります。

ハウスボーイになって衣食住の心配がなくなっていた上、奨学金により学費も要らなくなったので親の援助なしに留学生活を続けられるし少々ながら貯金も出来るようになりました。

40.アメリカ女性の秘毛(?)

リチャードソン家のハウスボーイの仕事のひとつに毎週土曜日の家中の清掃作業がありました。 バス・トイレルームが5ヶ所の洗浄、地下室から4階アトリエまでの絨毯床のヴァキュウム(電気掃除機での塵取り)、南面総ガラス張りの一階から四階までの窓ガラス拭き等々です。

ある時金曜日にリチャードソン夫人の姪でワシントン大学の学生だったフライデーが遊びに来て泊まっていきました。 翌土曜日は清掃日で彼女の泊まったゲストルームの浴室を掃除しているとシャーワールームの床に金色の毛が落ちています。よく見るとそのちじれ具合から紛れもなくあそこの毛です。フライデーのものに違いありません。そのまま洗い流そうとした時ふと思い出しました。高校時代の友人の依頼です。是非アメリカ女性のあそこの毛を持ち帰ってほしいというものでした。

あそこの毛なんてよほど親密にならなければわけてもらえるはずもありません。そんなことは内気な自分に出来るはずもないのです。しかしここにあるのは紛れもなくその友人ご所望のものであることに間違いありません。よし、これを友人に送ってやろうという考えが頭をよぎりました。後先を考えずに努力なしに手に入れた一物を件の友人に郵送したのです。でもよく考えるとその入手方法にあらぬ想像を働かされる恐れは十分あったのです。

しかし友人からは何の反応もありませんでした。 奥さんに見つかって逆に絞られたのではないでしょうか。 私はこれ以外にも蚤を手紙に入れて日本に送ったことがありますがその話はフランス生活編の部でお話することにしましょう。

39.園遊会と七面鳥の亡霊

Mr.リチャードソンは大手製紙会社の営業部長でした。学生時代はアメフトの全米代表選手にもなったことがあると言うだけあり立派な体格をしていました。夫人の方も大柄で漫画のブロンディーのような金髪で丸顔でした。二人は良く友人を招いて園遊会を開いていました。園遊会が近づくと私にバーテンの手伝いをさせるためカクテルの作り方を教えるのです。

3時頃に大学から戻るとDen(奥まった小部屋)に来るように言われます。Denに行くとテーブルにジン、ヴォッカ、トニックウオーター等の瓶が並べられています。但し中身はすべて水です。日本ではシェーカーを振ってよくカクテルを友人に振舞ったものですがアメリカに来てバーテンの訓練を受けるとは思ってもいませんでした。夫人が椅子に座って「ジントニックを作って」、「マティーニを作って」と指示します。アメリカではあまりシェーカーは使わずメジャーを使ってベースとなる酒と混ぜるべき添加物を適量量りグラスに注ぎかき混ぜて完了です。混合比率を間違えると「それではダメ!」と言われやり直しさせられます。中身はすべて水での練習なので失敗しても問題ない訳です。

実際の園遊会にはプロのバーテンダーが雇われるので私の出番はあまりありませんがウエイターとして飲み物の注文をとって回るのである程度の知識がなければならないわけです。リチャードソン家のパーティーに集まる人達が注文するのはウイスキーのオンザロックかジントニックかマティーニぐらいでしたが私が苦労したのは飲み物の注文をとることより注文した人のところに飲み物を間違いなく届けることでした。何せ広い庭での立食パーティーです。人々はいろいろな人と話すため動き回ります。皆似たような顔をしていて服装も似ているのです。動かないでいてくれても区別が出来ないのに動き回るのですから注文された飲み物をそれを注文した人に間違いなく持って行くのは至難の業です。

日本では飲み会等を開く場合はサークルの仲間とか小学校や中学や大学時代のクラスメートとか職場の仲間とかある特定のグループだけで集まるのが普通ですがアメリカのパーティーはホストにあらゆるつながりのある人々を呼ぶのでいろいろなグループの人間がごったになります。そこで友達の輪がどんどん広がってゆくので中々楽しいものです。

そんなわけで前もって出欠席の返事を貰っていても当日になって出席者の数が大幅に狂うことが起こりうるのです。リチャードソン家のパーティーでも大誤算が起こったことがあります。クリスマスパーティーで60人前後の参加者を予測していたところ実際に参加したのが40人強になったのです。被害を蒙ったのは私でした。七面鳥の料理が10数人分余ってしまったのです。七面鳥も少量グレービーをかけて食べるのは美味しいこともありますがリチャードソン夫人に来る日も来る日も七面鳥を食ってくれと言われ続ければどうなるか。一週間もこの拷問が続いた頃から七面鳥にうなされるようになったのです。

2010年7月12日月曜日

38.初デートと変な話

気候も春めいて暖かくなって来た頃エキからボッブ、ジョーンと共に家に招待されました。誰かガールフレンドを連れて来いと言うのです。未だガールフレンドなどいませんでしたので困ってしまいました。そこでふと思いついたのがクリスマスのスキー合宿で知り合ったドイツから来ていたギゼラです。ドイツ人の家庭に行くのだからドイツ人女性がいいかなと言う単純な発想でした。ギゼラに連絡を取ると「いいわよ」と二つ返事です。

ホストファミリーのアンに話すと「良かったわね。初めてのデートでしょ。私の車を使いなさいとヒルマンの赤いコンバーティブル車を貸してくれました。真っ赤な小型オープンカーに金髪の女性を助手席に乗せ新緑の郊外を走るのは気分のいいものでした。シアトル郊外のエキの家に着くと既にボッブとジョーンは来ていました。しかし二人ともガールフレンドは連れてきていません。エキは私がドイツ人のギゼラを連れて現れたので一瞬びっくりしたようでしたがすぐにギゼラと打ち解けて話し始めました。

そこへエキの父親が現れました。いいものを見せるからといって私を地下室へ案内しました。そこは研究室と言うか実験室と言うか部屋の真ん中には宇宙を思わせる様な模型があり地球のようなものが空中をぐるぐる回っていました。エキの父親は人工衛星エコー(私が日本にいるときに東京の夜空でも肉眼で見ることが出来たアメリカが打ち上げた話題の人工衛星)開発技術者グループの一員だったそうです。その彼が私に向かって「私はこの装置を使ってアインシュタインの光速度不変(いかなる慣性系から見ても)の原理が間違いであることを証明した」と言いだしたのです。もし、それが本当なら物理学会を揺るがす大問題になるはずですがそれ以後そんな話はどこからも聞こえてきませんでした。エキのデータ捏造を知った後でしたので「この父にしてこの子あり」かなと思ったりしました。

ドイツ風の昼食をご馳走になった後、雑談になりました。エキは自作のアンプを持ち出してきてボッブに見せ何か意見を求めていました。当時のアンプには真空管が使われていました。そんな時エキが突然私に向かってチラッとボッブに目をやり「ボッブはこれだから注意しろよ」と言ってアンプから取り出した真空管を口にくわえる仕草をしたのです。まさか、ボッブにはガールフレンドがいた筈です。しかしその日ボッブもジョーンもガールフレンドを連れてきていませんでした。

それから数日たったある日、ジョーンがリチャードソン邸のわたしの地下室に尋ねて来ました。数学の宿題を一緒にやってくれと言うことでした。ジョーンが一人だけで来たのは初めてでした。暫く一緒に宿題に取り組んでいましたがその内異様な雰囲気に気がつきました。ふと顔を上げてジョーンを見ると私を見つめているのですが目が死んでいます。催眠術に掛かったように空ろなのです。私は気味が悪くなり表に飛び出しました。「ブルータス、お前もか」の心境で暫く心臓の鼓動がなりやみませんでした。

(尚、ギゼラはその後間もなく家庭の事情で国に戻って行きました。)

37.仲良し4人組

物理の実験で一緒だったエキ・ゲーハルト、ボッブ・ハンフリー、それにジョーン・ハドソンとはすぐ仲良くなりました。 エキはドイツ人で物理の科目はほとんど「A」を取っていました。ボッブはステレオマニアで彼自身アンプを作っては売って学費に当てていました。ジョーンは人のいい普通のアメリカ人です。私を交えた4人は放課後よく集まって数学や物理の宿題を一緒に解きました。

物理の宿題は多くの場合その週に行った実験のデータを使ってレポートを仕上げるものでした。エキが何時も確りとデータを記録していてくれたおかげで助かりました。ボッブとジョーンはあまり数学がとくいではなく小1時間も考えても出来ないと私の答えをコピーして提出していました。エキは毎回のように物理のレポートを短時間で書き上げていたのが不思議でしたがある時その秘密を知ってしまいました。

フィゾーの光速測定実験でした。私は3x10の8乗メーターに近い結果は出ますがエキはC=2.9979・・x10の8乗と5桁ぐらいまで正確な数値を出すのです。ふと彼のデータを見るとなんとデータを捏造していたのです。最初に「答えありき」で測定データの代わりにより正確な結果が得られるように自分で都合のいい測定値を作っていたのです。学期の最終成績には宿題の点が50%程反映されるのでこれでは勝負になりません。最もエキは期末試験も良い点を取っていたので何も言えませんでした。

2010年7月10日土曜日

36.インターナショナルショー

年に一度インターナショナルショーなるものが大学の講堂で開かれます。これは留学生達が国別に趣向を凝らした芸を披露する一種のお祭りのようなショーです。留学生はもとより、ホストファミリーそして地域住民たちが見に集まります。日本からは年によって違いましたが、日本舞踊、琴の演奏、柔道の乱取り、唱歌合唱、そして盆踊り等々から2・3選んで披露していました。前者三つは留学生の中から経験者が選ばれて担当しましたが合唱や盆踊りは日本人留学生ほぼ全員参加で行われました。ぶっつけ本番と言うわけには行きませんのでインターナショナルショーの日が近づくと週に1・2度は集まって練習です。皆で唄った歌の中でも瀧廉太郎氏の名曲“花”「春のうららの すみだ川 上り下りの船人が・・」は今でもよく覚えています。シアトルの日本人会から貸してもらったゆかたを着、菅笠を被ります。皆で集まってわいわいするのは楽しいものですが、あまり時間を取られると学業に影響が出てきます。私はこれを逆手にとって良い成績が取れそうもない科目の中途棄権の口実にしました。

欲張って科目数を多めに選択してしまった場合とか、背伸びして自分の実力以上の科目を選択してしまった場合など学期が始まって1・2週間もすればこのまま続けると「C」とか「D」になりそうだと解ります。こんな時には最初の2週間以内に担当教授に申し出れば正当な理由さえあれば無傷のままドロップアウトすることが可能だったのです。インターナショナルショーの準備で忙しく勉強する時間が取れないと言うとほとんどの教授は認めてくれたのです。私は1・2度この手を使って悪い成績を取るのを防いでいました。

インターナショナルショー様々ですが私がワシントン大学にいた間に見たショーの中で一番鮮明に覚えているのはイスラエルから来ていた超美人留学生のベリーダンスです。3年後ヨーロッパから日本に帰る途中エジプトで見た本場のベリーダンスよりすごかったと思います。

35.ヨークシャーテリア「トップス」と苦肉の策

ハウスボーイとして住み込むこととなったリチャードソン家で最初の日にリチャードソン夫人に言われたのは「Make bed for Tops!」でした。Tops(トップス)というのは夫人の飼っていたオスのヨークシャーテリアであす。小学生の頃、通学途中で道の先に犬の姿が見えるともう足がすくんで歩けなくなるほどで世の中から犬などいなくなればよいと思っていたほど犬嫌いだったこの私が犬の世話をすることになろうとは思ってもいませんでした。 留学生支援オフィスからこのアルバイトを紹介された時には犬の話は聞いていませんでした。

世話をするようにといわれたトップスは飼われて7年目、かなりの老齢です。 ふさふさした薄茶色の毛にところどころグレイの毛が混ざった立派なヨークシャーテリアでした。 というのは寝床を整えるという程度の意味ですがあがっていたせいか犬のベッドを作れと言われたと勘違いしてしまいました。リチャードソン夫人がどうして私の工作好きを知ったのだろうと不思議におもいました。トップスの寝床はベースメントの一角にありました。毛布がくしゃくしゃになっていました。あっ、そうかこの毛布をきちんとひきなおしてやればいいのだなとその時気がついたのでした。

トップスも毎日餌をやっていたので暫くすると良くなついてきて怖くなくなりました。毎朝餌をやった後に排便をさせるためリチャードソン邸の庭と繋がっているゴルフコースに連れて行きます。 早朝のゴルフ場はたくさんの小鳥達がそこら中で競うように囀っていてとてもさわやかな気分になります。 但し当然のことながらトップスが便意を催すまでの時間は日によってまちまちです。このことが私にとっては大問題となってきます。大学の授業は8時20分から始まるのです。リチャードソン邸からは自転車でどんなに急いでも物理の教室までは15分はかかりました。 と言うことはトップスの朝の散歩は8時までには済まさないといけません。トップスが便意を催すまでの時間にはばらつきがあるので余裕をもつ為には7時半には散歩に連れ出さなければならないのです。 

6時過ぎに3階のリチャードソンご夫妻のベッドがコトッとなる音で目が覚めるとすぐさま着替えをして台所へ行きご夫妻のための朝のコーヒーを用意しなければなりません。それと同時に自分の朝食を食べ、サンドイッチの弁当を用意します。トップスの排便時間が定まらないと毎朝せわしないこと夥しいのです。そんな時、ふと奇策を思いつきました。そうだ、これならばトップスの排便をコントロールできるかもしれません。思いついたら直ぐ実行あるのみです。ゴルフコースに出るとフェアウエー脇の林で小枝を拾い、狙いを定めてトップスの肛門のしわしわの部分を突っついてみました。そうするとどうでしょうトップスはその場でよたよたと数歩進むとかがみこんで排便を始めたのです。この方法は百発百中成功でした。私にとっては大発見でした。それからというもの毎日この方法でトップスの散歩時間をコントロールしたのです。トップスにとってはいい迷惑だったに違いありません。

2010年7月9日金曜日

34.リチャードソン邸での仕事

毎日朝6時には起きて豪邸の主人夫妻のために1階のキッチンに駆け上がりコーヒーの準備をします。毎朝6時に起きるなどと言うのは日本にいた頃には考えられないことでしたが慣れとは恐ろしいもので暫くすると3階の寝室でご夫妻が目覚めた気配(具体的にはベッドがコトッと音を出す)で目が覚めるようになったのです。コーヒーの準備が終われば直ぐに大きな飼い犬を散歩に連れ出し犬が便をするまでゴルフ場の中を歩き回り犬の用便が終わるや否や家に連れ帰って大学へ自転車に乗って出かけます。大学から戻ればスーパーマーケットへの買い物、庭の草花の手入れ、植木の刈り込みなどで休む暇のない毎日です。

又、夜は皿洗いをすることになっていました。ディッシュウォッシャーはあったのですがある程度食器を洗っておかないと完全に汚れが取れない場合があるということでディッシュウォッシャーに入れる前に軽く洗っておくのです。毎週土曜日は朝から夜までかかってお城のような家の地下室から4階のアトリエまで家中の大掃除を一人ですることになっていてこれが又大変な仕事でした(何しろ全部でトイレ浴室が5ヶ所もあったのです)。十数室ある部屋のふかふかした絨毯に真空掃除機をかけることから始まり、家具の艶出し、洗面室のタイルのたわしがけ、トイレの便器磨き、そして時には便器にへばりついた便をたわしを使っての除去、窓ガラス拭き、ブラインドのひだ1枚1枚の裏についているほこり取りはとても根気の要る泣きたくなる作業でした。 窓拭きにしても低い階の窓はまだしも3階、4階となると身体を半分外に乗り出して外側も磨くのですから電信柱の上に登って作業しているようで高所恐怖症の私には震えが来てしょうがありません。他の留学生が休みを楽しんでいる土曜日はそんなわけで私にとっては一番大変な日だったのです。

それ以外にも月に一度大きな部屋一杯に集められていた銀の食器類を特殊なクレンザーで磨く日が決められていて、これがまた大仕事でした。銀食器は一ヶ月もすると表面が酸化して黒く汚れてきますが、この汚れをクレンザーで磨くとその黒い銀特有の汚れが磨いている手のしわの溝に染み込んでそれがどんなに石鹸で洗ってみても一週間はとれないのです。この豪邸はプライベートゴルフ場の中にあったので主人夫妻は年に何回かは100人前後の客を招待しては園遊会を開いたり、また夫人の方は数人の友人を招いてブリッジをしたりゴルフをしたりしました。そんな時は臨時にバーテンにさせられたり、ウエイターにさせられたり、キャディーの役をさせられたのです。確かに大変な日々ではありましたが私は夢中で全部をこなしていったのです。

33.ハウスボーイとなる

2月に入ったある日久しぶりに大学の留学生支援オフィスに立ち寄ってみるとスタッフから声をかけられました。「日本人のハウスボーイを探している家があるのだけれどもやってみないか」というのです。私が留学資金で苦労していることを知っていたスタッフが私のために特別にとっておいてくれたアルバイト口でした。話しを聞いて見ると今入っている日本人留学生がフラタニティーハウスに移るので後釜を探しているというのです。その日本人留学生は一年先輩のヤスさんでした。連絡を取ると「一度見に来ないか?」と言ってすぐに家まで連れて行ってくれました。

先輩に連れて行かれたリチャードソン邸は大学から2マイル程はなれた場所にあるブロードモアーと言う名のメンバー制プライベートゴルフ場の中にありました。 ワシントン湖を見下ろす小高い丘の上にあり地下1階から3階まで南側が全面ガラス張りのお城のような豪邸です。 話はその日のうちにまとまり私は早速リチャードソン邸のハウスボーイとして移り住むことになりました。 

大学に通う時間以外で自分の自由になるのは日曜日と平日の夜9時から翌朝6時まででそれ以外の時間はすべて何らかの仕事が与えられていました。 土曜日は終日掃除でつぶれます。 学生ビザで入国している留学生は正式にはアルバイトをしてはいけなと言うことになっていましたので厳しい条件で働かされても我慢するほかはありません。 他の日本人留学生からは「よく我慢できるね」と言われましたが私は未来に夢を持っていたのでそれほど辛いとは思いませんでした。 部屋付、食事付、そして月々$50(当時の為替レートは1ドル360円でしたから日本の大学同期生の初任給より遥かに多かった)のお小遣いをもらえる仕事は魅力でした。あてがわれた部屋はベースメント(地下)にあるとはいえ広いバス、トイレ付でベッドも立派なダブルベッドでした。また明かり窓がついていて窓の真ん中ぐらいが路面の高さとなっていて結構光が差し込んでくるなかなかなものでした。

32.冬学期始まる

アメリカにはクリスマス休暇はあっても日本のような正月休みはありません。元日は休日となりますが2日からは平日であれば仕事が始まります。学生も同じです。そんなわけで大晦日は親しい日本人留学生達とちょいと一杯やるぐらいで過ぎてしまいました。少しだけ正月気分を味わえるのはシアトルの日本語ラジオ放送から流れてくる「明けましておめでとうございます」の言葉ぐらいです。日曜日にはよく日本語放送を聴いたのですが普通の日は現地英語放送のポピュラーミュージックの番組を聴いていました。その頃急に流行ってきたのが坂本九の「上を向いてあるこう」でした。もっともラジオでは「カユ・サカモト、スキヤキ(時にはスキヤカとも発音されていました)ソング」と紹介されていました。やはり懐かしいのでうれしく感じたものです。

さて話を学業に戻しましょう。1月に入るとすぐ始まる冬学期の選択科目を決めなければなりません。奨学金をもらうためにはGPAを下げるわけには行きません。数学は秋学期の続きの2科目を取り、物理は日本でも少し勉強した力学と熱力学を選び、更にGPAを上げるため自信のあったフランス語の中級コースを選びました。いよいよ私にとっての第二学期が始まりました。フランス語はサルトルの本が教材でした。フランス語そのものより哲学的な内容のほうが難解でした。数学は問題なかったのですが物理は授業の進み方が早く宿題に終われる日々でした。ただ一度だけ力学の教材で「・・・はニュートンの法則と相容れないところである」との記述を見つけ教授にどの部分が矛盾するのか質問したところ「このクラスで計算問題の質問ではなく物理の根幹に関わる質問をしてきたのは君が始めてだ」と変な褒められ方をしました。私としては古典物理学が行き詰って出てきた現代物理学を学ぶために留学したのですから当然な質問だったのでした。この冬学期のさなか私の生活に大きな転機が訪れました。

2010年7月7日水曜日

31.クリスマス休日のスキー合宿

クリスマス休日に行くところのない留学生のために留学生支援事務所はスキー合宿を準備していました。 場所はカナダとの国境近くにあるマウント・ベーカー(Mt.Baker)のロッジでした。スキーが好きだった私はやはりスキーが好きだった日本人留学生を誘って参加することにしました。実はホストファミリーのアン(デイビッドソン夫人)はスキーが大好きで私もスキーをすると知って私のためにHEAD(メーカー名)の金属製スキー板を用意してくれていたのです。

出発は金曜日の午後でした。教会関係のボランタリーの人達が手分けして参加する留学生達を山小屋まで運んでくれるのです。私を迎えに来たのはラスと言う名の優しそうな人です。小型トラックに乗ってやって来た彼は30を少し過ぎたぐらいの年恰好でしたがイガグリ頭で子供のようにニコニコしていました。助手席に私を座らせるとラスの運転で小型トラックはシアトルを後にし北へと向かいました。 2時間ほど幹線道路を北上すると東に向かって山道に入ります。暫く行くと川辺に出ました。既に夜の帳はすっかり下りています。「ここいらで少し休んでいこうか?」とラスが言います。ドアを開けて外に出ると冷たい澄んだ空気で空には無数の星が輝いていました。ラスがいろいろと星座の説明をしてくれました。天空の星達はそれまでに見たこともないほど鮮明に輝いていて実に綺麗でした。

ラスが用意してくれていたサンドイッチをほおばりながらラスの話を聞いているうち気が付くといつしか車は雪道を登っていました。ロッジに着くと既に大勢の留学生達が到着していました。この夜は簡単な自己紹介があって小一時間ほど留学生同士の歓談がつづきましたが比較的早く床につきました。ロッジのベッドは簡素なものでしたが寝心地は悪くありません。

翌日は朝からロッジ裏のゲレンデに出てスキーを楽しみました。スキーをしない人もいましたが可なりの数の留学生がスキーに取り組みました。このスキー合宿でその後長年の付き合いをすることになる大勢の友達が出来たのです。数人の日本人以外に、韓国のキムさん、トルコのハルークさん、カナダのミッシェル(女性)、ドイツから来たギュンター、ウーゼル(女性)、ギゼラ(女性)等々です。ロッジには囲碁のセットもありましたのでキムさんとは碁を打ちました。留学生の余興の時間にはハルークとトルコの歌を歌い彼を感激させました。歌の苦手な私が江利チエミの「ウスクダラ」の歌詞をたまたま覚えていたのです。ミッシェルは体格のいい女傑と呼ぶにふさわしい女性で男でも恥らうほどの「Y談(下ネタ話)」を得意としていました(45年後に再開してみると驚くことにスリムで貞淑な女性に変身していました)。ギュンターとウーゼルはその翌年結婚しました。この二人には私がアメリカからヨーロッパに渡った時にたいへん世話になることになったのです。楽しかったクリスマスが終わってシアトルに戻ると間もなく1963年を迎えることになります。

2010年7月1日木曜日

30.一夜の寝床泥棒

冬のシアトルは雪があまり積もりませんが気温は急激に下がって夜は零度以下になります。12月のある夜のこと友人達との飲み会でほろ酔い気分になりミセス・ジェイコブソンの下宿に戻って来ました。いつもの様に玄関ドアーの鍵穴に鍵を差し込みました。捻るとこくんと音がしてノブが回りドアが開けられる筈でした。ところがこの夜は鍵穴の中が凍り付いてしまっていて鍵が回せません。10分ほど懸命に捻ってみたのですがどうにも動かないのです。手はかじかんで力も入らなくなります。酔いはとっくに醒めて全身に震えが出はじめました。このまま外にいては朝までに凍死しかねないと思うと焦りが来ます。玄関上のPaulの部屋の電気は既に消えていました。誰か未だ起きている友人はいないものか考えると近くの下宿に住んでいるドイツ人留学生ギュンターのことを思い出しました。勉強家の彼なら深夜を過ぎた時間でも起きているかもしれません。

彼の入っている下宿は100mほど先の角地にありました。 行ってみると幸いなことに一階の彼の部屋には未だ明かりが点いています。窓に近づいて窓ガラスをこんこんと叩いてみました。気が付いた彼は入って来いと玄関ドアを開けて部屋に招き入れてくれました。ギュンターは未だ二十歳前でしたが頬ひげと顎鬚を伸ばしパイプを加えて革張りの椅子に座っている姿は哲学者の様な風格がありました。事情を話すと暫くパイプを吹かしていましたがパイプから手を離すと親指を天井に向けて差し出しウィンクをしたのです。彼の下宿は未だ満室になっておらず上の階に新しい下宿人を待っている空き部屋があると言います。そこに忍び込んで寝ろと言うのでした。「俺は黙っててやるから朝早く起きて出て行けばよかろう」と言うのでした。ちょっと後ろめたい気がしましたがこれしかないと思いました。

上の階の空き室には誰にも気づかれずに忍び込めました。ベッドには真新しいシーツで寝床が出来ていました。悪いなと思いながらもほっとしてベッドに滑り込みました。思ったより良く眠れました。翌朝他の下宿人達が起きてくる前に世話になったシーツのしわをのばして静かに外に出たのです。