2010年12月9日木曜日

72. 私のぼろ車1957年型フォード車の最期

私の愛すべきフォードの最後は壮絶でした。韓国から来ていた留学生の李さんが私の車でスポケーン(シアトルの東約500キロにあるワシントン州第二の町)迄一緒に行ってくれと言ってきました。付き合っていたアメリカ人の彼女が実家のあるスポケーンに帰ってしまったので迎えに行きたいと言うのです。李さんと彼女はかなり深い仲になっていたし私も彼女のシアトルのマンションに招待されご馳走にもなっていたのでOKすることにしました。しかしよく話を聞くと李さんが彼女に暴力を振い彼女が愛想をつかして実家に逃げ帰ったのです。「彼女も君の事は信頼しているから暴力を振うのは韓国の愛情の表現だと彼女に説明してくれ」と言うのです。そんな嘘はつきたくないと思いましたがOKした後でしたので李さんに同行してスポケーンに向けシアトルを後にしました。

当然日帰りは無理なので泊まりとなります。李さんはアルバイトでYellow Cab(taxi)の運転手もしていましたが運転が乱暴でよく事故を起こしていました。「俺が運転する」と言って我がぼろ車を彼が運転してスポケーンに向かったのでしたがその運転のすさまじいことといったらありません。スポケーンの町に大分近づいたころ国道横の傾斜のついた土手道を車が傾いた状態でびゅんびゅんと飛ばしだしたのです。恐怖で身体が硬直しました。きっと事故を起こして車が大破すると思ったのです。夕暮れ時で真っ赤な大きな太陽が車と一緒に追っかけて来るのが目に入りました。これがこの世で見る最後の光景だと思いました。

こんな思いをして到着したスポケーンでしたが彼女への電話説得は功を奏しませんでした。その日は静かな湖の近くのモテルに一泊したのですが翌日になって李さんが「俺は彼女を説得するためもう一泊する」と言い出したのです。私は考えました。説得に失敗したら気性の激しい李さんはますます無茶苦茶な運転をするに違いありません。もうこれ以上彼に付き合うのは身の危険を感じます。私は「どうしても今日シアトルに戻らねばならない用事がある」と言って一人先にバスで戻ることにしました。数日後李さんがシアトルに戻って来た時、もう我が愛車フォードは一緒ではありませんでした。帰路事故を起こし大破したのでジャンクヤードに18ドルで売ってきたと言って私に18ドル手渡しました。我が愛車を失くした悲しみより私は生きていられたことを神に感謝しました。

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